時代 |
詩人名(よみかな) / 事項 |
生没年 / 詩歌 |
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1.秦 | 虞美 | ぐび | [未詳〜前202] |
秦末から楚漢戦争期の女性。項羽の愛人。正確な名前ははっきりしておらず、「虞」は姓である(『漢書』)とも名である(『史記』)ともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。 虞美人歌 秦末・虞美 詩<118>古代 女性詩 555 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1482 |
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2.漢 | 西施 | せいし | |
本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれだと言われている。 現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施,;西施と呼ばれるようになった。西施ものがたり |
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3.前漢 | 唐山夫人 | とうざんふじん | (紀元前206頃在世) |
姓は唐山,漢高祖劉邦之寵姫。高帝の宮人で名は未詳、生歿についても詳らかでない。 ・安世房中歌 郊廟の祭祀に用いる雅楽で、唐山夫人の所作。 安世房中歌十七首 |
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4.前漢 | 烏孫公主(劉細君) | (りゅう さいくん ) | 生没年不明: |
前漢・武帝の時の江都王・劉建の娘。前105年、公主として西域の烏孫国(天山山脈の北)の王に嫁がされ、「悲愁歌」を作って身の悲しさを述べた。烏孫公主とも言う。王昭君の事と共に有名。悲愁歌 |
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5.蜀 | 卓文君 | (たくぶんくん) | 生没年不明: |
前漢の蜀(しよく)の富豪の娘。文人の司馬相如(しようじよ)と知り合い、成都に駆け落ちして辛苦をともにした。のち相如が心変わりした際、「白頭吟」を作って決別の意を示した。後世、戯曲などの題材とされる。 白頭吟(皚如山上雪) |
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6.前漢 | 王昭君 | おうしょうくん | 生没年未詳 |
中国、前漢の元帝の宮女。名は(しょう)。昭君は字(あざな)。のちに明妃(めいひ)・明君ともよばれる。匈奴との和親政策のため呼韓邪単于に嫁がせられた。その哀話は、戯曲「漢宮秋」などや、人物画「明妃出塞図」の題材となった。怨詩(昭君怨) 王昭君ものがたり | |||
7.前漢 | 華容夫人 | かようふじん | 紀元前80年在世 |
武帝の子で長子でありながら位につけず、少子が昭帝となったのを怒り廃位を謀ったが失敗、自害する。その死の前に歌った時、華容夫人もたって舞い、詩を詠った。 | |||
11.前漢 | 班u、(はんしょうよ) | はんしょうよ | 生没年不詳 前48年ごろ在世。 |
中国・前漢成帝の愛人。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。怨歌行 怨詩(新裂齊?素) |
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12.前漢 | 趙飛燕 | ちょうひえん | (? - 紀元前1年) |
出生は卑賤であり、幼少時に長安にたどり着き、号を「飛燕」とし歌舞の研鑽を積み、その美貌が成帝の目にとまり妹「合徳」と一緒に後宮に迎えられた。後宮では成帝の寵愛を受け、更に妹の趙合徳を昭儀として寵愛を受けている。 姉は「細腰」、妹はぽっちゃりと対照的な姉妹だったが、姉は皇后に妹は昭儀にそれぞれ立てられた。 趙姉妹は交代で皇帝の寵愛を受けたのである。 歸風送遠操西京雜記(第五巻)に「趙皇后には宝琴があって、よくこの歌をなした。」とあり、この詩はそこにはなく、古詩紀「二巻」にある。紀元前1年に哀帝が崩御し平帝が即位して後、王莽の策謀により皇后、平民に貶められるまでの間の作であろう。 |
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13.後漢 | 班 昭 | (はん しょう、) | 45年? - 117年? |
中国・後漢の作家。中国初の女性歴史家。一名・姫。字は恵姫、または恵班。扶風安陵(陝西省咸陽市)の出身。歴史家・班彪の娘として生まれ、同じく歴史家・班固と、西域で活躍した武将である班超は兄である。班超の三男である班勇は甥。14歳で曹世叔に嫁ぎ、世叔の死後、彼女の才名を聞いた和帝が召し出して宮中に入れ、後宮后妃の師範とした。人々は敬して曹大家と称した。 兄の班固が『漢書』を未完成のまま亡くなったので、八表・天文志の稿を書き継いで完成させた。その他の著として、『女誡』7章、『続列女伝』2巻も彼女が選定したものと伝えられる。辞賦に長じて、父・彪の『北征賦』に対して『東征賦』を作り、『文選』に収められ漢代女流作家の第一人者に数えられる。ほぼ安帝の時代で元初年間(114年−119年)に没している。享年70余という。『後漢書』にその伝がある。 |
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20.後漢・魏 | 劉勲妻王宋 | りゅうくんつまおうそう | |
雑詩二首がある。玉台新詠では自作とされるが、『文芸類聚』によれば魏の文帝の擬作とされるがここでは彼女の自作とする。 | |||
21.魏 | 蔡炎(蔡文姫) | さいえん | 177頃 - 239頃 |
後漢末から魏初の詩人。字は文姫、または昭姫。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡?。才女のほまれ高く音律に通じ、また数奇な運命でも知られる。 河東の衛仲道の妻となるが死別。195年(興平2年)、董卓の残党によって乱が起こると、実家に帰っていた蔡?は匈奴の騎馬兵に拉致され、ついには南匈奴の左賢王劉豹に側室として留め置かれることになった。そこで左賢王との間に二子をもうけた。12年後の207年、蔡?の後継者が居ないことを惜しんだ曹操が、身代金として財宝を支払うことによって帰国した(その際、子供を匈奴に残している)。その後、同郷出身の董祀に嫁いだ。また、失われた父の蔵書のうち蔡?の暗記していたものを復元した。陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓があり、付近には記念館が建っている。 現存する詩として、自らの波乱の人生をつづった『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の二首が伝わっているが、『胡笳十八拍』については後世の産物だという説もある。 蔡?の人生を題材にした作品に、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』、郭沫若の戯曲などがある。 悲憤詩 胡笳十八拍 |
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22.魏 | 甄后 | けんごう | |
河北無極の人。初め袁紹の中子に召されたが後、文帝の夫人になる。後、皇后となり明帝を産んだが、郭后に嫉妬、御門の怒りにあい死を賜った。作品は他の人、諸説ある。古詩源 塘上行 |
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23.魏 | 蘇伯玉妻 | そはくぎょつま | |
久しく帰らない蜀にいる夫(蘇伯玉)に長安にいる妻が詩を贈った。 盤中詩(玉台新詠集巻九) 盤中詩(古詩源巻三) |
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24後漢・魏 | 竇玄妻 | とうげんつま | 未詳 |
後漢書によれば竇玄の妻は容貌がすぐれていたために、天子がその妻を出させて、かわりに公主(天子の女)をめあわせたと伝える。 古怨歌 時に竇玄の妻が悲しみ怨み、書と歌とを玄に寄せたという。時の人々がこれをあわれんで伝えたのである。 |
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31.後漢 | 徐嘉妻徐淑 | じょしゅく | 未詳(174年頃在世) |
夫秦嘉の詩に対して徐淑が返した詩で兮をはさんだ五言の形式ではあるが雰囲気だけの五言詩である。答詩一首 答詩一首 秦嘉妻徐淑 女流<113-#1>玉台新詠集 女性詩 549 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1464 答詩一首 秦嘉妻徐淑 女流<113-#2>玉台新詠集 女性詩 550 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1467 |
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32.晋 | 賈充 與妻李夫人 | りふじん | |
李豐が罪により誅せられ李豐妻も、一家流罪となったが後許されて、賈充と交際した。そのころ、賈充と李豐夫人との連歌。 | |||
33.晋 | 桃葉 | とうよう | |
王羲之の子王獻之の愛妾。 答王團扇歌三首(其一)七寶畫團扇、答王團扇歌三首(二)青青林冲竹、答王團扇歌三首(三)團扇復團扇 |
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34.晋 | 謝道蘊 | しゃどううん | 未詳〜399. |
女流文学者。陳郡・陽夏の人。安西将軍謝奕の娘で、会稽内史王凝之の妻。?聡明で知識に優れ、才弁があった。剣の腕前もあり、厳格であった。古詩源巻九P121登山 | |||
36.南斉 | 鮑令暉 | ほうれいき | 生卒年不詳。 |
南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。略歴 いわゆる寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉 ( 南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された 鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請假?》中講到僅有的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。 香茗賦集 |
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41.梁 | 許瑤 | きょよう | |
詩二首 詠楠榴枕 閨婦答鄰人 | |||
42.梁 | 沈満願 | しんまんがん | |
43.梁 | 劉令嫺(徐緋妻) | りゅうれいかん | |
答外詩二首(一)花庭麗景斜 答外詩二首(二)東家挺奇麗 答唐嬢七夕所穿針 詩三首(一)光宅寺 詩三首(二)題甘蕉葉示人 摘同心支子贈謝嬢因附此詩 雜詩 和?、怨 和昭君 贈答一首 暮寒一首 |
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44.梁 | 衛敬瑜の妻王氏 | おうし | |
孤燕詩 | |||
45.梁 | 武陵王妃 | ぶりょうおうひ | |
同蕭長史看妓 | |||
47.梁 | 王叔英妻劉氏(劉孝綽の妹) | ||
和u、怨・和昭君怨 | |||
51.北魏 | 胡太后(胡芳) | こほう | |
楊白花 | |||
52.北斎 | 馮淑妃 | ふうしゅくひ | |
感琵琶絃 | |||
53.北斎 | 丹陽孟珠 | たんようもうしゅ | |
歌一首 | |||
54.南斉 | 蘇小小 | 生没年不明: | |
錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州市。「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。歌一首 | |||
55.南斉 | 花蕊夫人 | かずいふじん | 生没年不詳945在世 |
後蜀の帝王孟昶の妃。後に北宋の皇帝太祖(趙匡胤)の妃。姓は徐氏と費氏の2つの説がある。 青城(四川省都江堰市(もとの灌県))出身。幼少の頃より文学的才能があり、容姿も美しいということで、孟昶の後宮に入り妃となった。その後、花蕊夫人という称号を賜った。孟昶を様々な角度から捉え、宮廷生活を綴った宮詩100首余りを残した。 |
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56.隋 | 大義公主 | たいぎこうしゅ | |
隋の皇帝から賜った称号、公主は天子の女の子の尊称。春秋時代は諸侯の女を称した。後周の宇文氏の女、嫁して突厥(雜胡)の沙鉢略の妻と為る。 書屏風詩 |
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60.唐(周) | 武照 武則天 | ぶそくてん | (623年〜705年12月16日) |
武照は、唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた。 |
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61.初唐 | 上官婉兒 | (じょうかんえんじ) | 664年 - 710年 |
初唐代の女官。唐・中宗の時、昭容の職位に就く。陝州陝県(現・河南省)の人。上官儀の孫で才媛。後に、政変のため殺された。 綵書怨(葉下洞庭初) 九月九日上幸慈恩寺登浮圖群臣上菊花壽酒(帝里重陽節) 帝駕幸新豐湯泉宮獻詩三首之一(三冬季月景隆年) 帝駕幸新豐湯泉宮獻詩三首之二(鸞?掣曳拂空回) 帝駕幸新豐湯泉宮獻詩三首之三(翠幕珠幃敞月營) 奉和聖製立春日侍宴内殿出翦綵花應制(密葉因裁吐) 遊長寧公主流杯池二十五首之一(逐仙賞) 遊長寧公主流杯池二十五首之三(檀欒竹影) 遊長寧公主流杯池二十五首之四(仰循茅宇) 遊長寧公主流杯池二十五首之五(枝條鬱鬱) 遊長寧公主流杯池二十五首之六(C波洶湧) 〜同題で十六(泉石多仙趣)まで |
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66.盛唐 | 楊貴妃(楊玉環) | ようきひ | 719年 - 756年 |
幼名は玉環。蜀州の司戸参軍楊玄?の娘。幼時に父を喪って叔父の養女となり、玄宗の第18皇子/寿王瑁の妃とされた。歌舞音律に通暁して才知にも長け、武恵妃死後の玄宗の寵妃を探していた高力士に認められ、勅命で道観に入ってのち745年に後宮に納れられ、貴妃の位が新設された。朝政に容喙する事は少なかったが、3人の姉は国夫人とされ、従祖兄の楊国忠が宰相となるなど一族は無原則に高位高官とされ、各地で驕奢暴虐を行なって朝野から唾棄された。安禄山の乱で蜀への退避に同行したが、軍部の要求で馬嵬駅(陝西省興平県馬嵬鎮)の仏寺の庭で殺された。 楊家の車馬が玄宗の娘の広平公主と道を争い、落馬した公主を庇った夫の程昌裔が罷免されて朝見を禁じられた事があり、楊氏の横暴と玄宗の老耄を伝える格好の事例とされる。阿那曲 |
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67.盛唐 | 李季蘭 | りきらん | (生歿713-755?年) |
原名李?,唐玄宗開元初年,?六??的父親覺得?年紀雖小,卻性情不寧,將來必會出亂子,於是將?送入 道家 せん中の玉真觀に出家し,李季蘭に改名する。 | |||
70.中唐 | 杜秋娘 | としゅうじょう | 790年頃〜822年在世 |
間州(鎮江)の人。十五?金でもって買われ府中の歌舞妓となる。806年順宗より、憲宗に譲位。その時蜀で叛乱があり鎮圧、祝宴に歌舞?として着ていたのを認められ「金縷衣」を賜り、後に秋妃として封じられる。憲宗中毒死ののちは宦官にはかられて終わる。金縷衣。 | |||
71.中唐 | 薛濤(せつ とう) | せつとう | 768年 - 831年 |
伎女・詩人。魚玄機とならび詩妓の双璧と称される。長安の出身(一説では成都とも)。父の赴任とともに蜀へ移り、14・5歳の頃に任地で父が亡くなり17・8歳頃までに楽籍に入った(伎女となること)。蜀の長官・韋皐の屋敷に召されて酒宴に侍し、詩を賦して女校書と称せられた。浣花渓にいて、白居易・元?・牛僧孺・令狐楚・張籍・杜牧・劉禹錫などと唱和し、名妓として知られた。 春望詞一首 送友人 海棠渓 |
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76.晩唐 | 魚玄機 | ぎょげんき | 843〜868年 |
唐代末の女流詩人。長安の人。字(あざな)は尢(けいらん)・幼微。詩文の才能で有名になり、女道士となったが、召使いの女を殺して死刑になった。森鴎外の小説「魚玄機」の主人公。843〜868年。晩唐の詩人。長安の妓楼の娘。 中唐の薛濤(せっとう)と並び称される唐代を代表する女流詩人。 20歳の時、恋人の高級官僚・李億(りおく)と漢陽へ来たが、この地で李億に捨てられる。 道教の尼となった魚玄機は再び恋をするが、その恋人李近仁(りきんじん)をまたも使用人に奪われてしまう。 魚玄機は嫉妬のあまり、使用人を鞭で打ち殺してしまい、これが発覚して処刑された。数奇な運命をたどった情熱の女性。26年の短い生涯だった。 秋怨 秋思 江行 題隠霧亭 |
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77.晩唐 | 唐婉 | とうえん | |
南宋第一の詩人といわれる陸游(1125-1209)と彼の最初の妻唐?とのロマンスは中国では広く知 られた物語である。陳舜臣の「中国の歴史」参照 陸游は20歳のとき母方の縁につらなる唐?と結婚した。夫婦仲は睦まじかったが,なぜか唐?が陸游 の母親から嫌われ(一説には,夫婦仲がよすぎたからとも,またこどもが出来ず,それについてうそのつ げ口をされたからともいわれる),1年ほどで離縁させられてしまった。内緒で家を借り隠れて逢ってい たが,それも母親の見つかるところとなり,以後会うことができなくなった。やがて唐?は宋の帝室につ ながる趙士程に再嫁,陸游も王氏と再婚した。 釵頭鳳の返歌 山盟(堅い誓い)在ると雖も 陸游 麗わしの人、唐婉。(8)釵頭鳳 唐婉 |
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81北宋・南宋 | 魏夫人魏玩,字玉汝 魯国夫人 | ぎふじん | (1040〜1103) |
字玩,襄陽人。魏泰之?,曾布之妻, 封魯國夫人。其詞多膾灸人口。有《魯國夫人詞》輯本。 |
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82北宋・南宋 | 李C照 | りせいしょう | (1084〜1151年頃) |
(1084〜1153年頃)北宋末期・南宋初期の詩人。斉州章丘(現在の山東省済南市の県級市章丘市)の人。夫は政治家の趙明誠。父は李絡非、韓茸の門に出た学者で、文章をよくした。中国史上を代表する女流詞人として知られている。現代でも通ずる繊細な感情の動きと口語も使った自然で親しみやすい作風とが相俟った、中国人の間では、極めて人気がある詞人である。 李清照集 |
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83北宋・南宋 | 朱淑眞 | しゅしゅくしん | (1080頃〜1132頃) |
幽棲居士。祖籍は歙州(州治今安徽歙縣)で、生活は銭塘(今の浙江省杭州)の西湖の湖畔(涌金門付近)といわれる。若い頃から不幸で、両親が慎重にふさわしい配偶者を選ぶことをせず、市井の民の妻となった。一生鬱々として本志を得なかったので、詩には「憂愁怨恨」のことばが多い..残されている作品も多い。 風格宛約、「断腸詩集」十巻、「補遺」一巻、「断腸詩集後集」七巻、「断腸詞」一巻 |
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84北宋・南宋 | 呉淑姫 | ごしゅくき | 生卒不詳。 |
北宋末期の女流詩人。浙江の人(山西萬榮縣西南の人とするものもある)。《陽春白雪詞》五卷がある。「薄命詞人」と呼ばれる。 父は早死し、結婚生活は順調でなく、一生、苦労して、屈辱の中にその人生を終わったという。文人の楊子治の妻。 1.小重山(春愁) 2.惜分飛(送別) 3.祝英台近(春恨) 4.長相思令 |
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85.北宋・南宋 | 李師師 | 生没不明:1135年在世 | |
北宋角妓(才貌出?的名藝妓、交際花,與賣淫為主的色妓有別),?京(今中国河南省刑封市)の人。 | |||
86北宋・南宋 | 張玉娘 | ちょうぎょくじょう | (1250─1277) |
字若瓊,號一貞居士,松陽人。南宋著名女詩人。21歳で婚約するが未婚のまま精神病で僅か二十八歳で病没す。 山之高三首 |
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90.明・清 | 陳円円(刑阮(婉芬) | ちんえんえん | (1624 -- 1681) |
陳元,江蘇常熟縣奔牛鎮の人呉三桂の愛妾。 | |||
92.明 | 柳如是 | りゅうじょぜ | (1618年−1664年) |
、浙江嘉興人。本名楊愛、后改名柳隠、字如是。明清代の著名な歌妓、才女。墓は常熟の虞山に在る。明末清初の男装の女流文人 妓女出身 はじめ陳子龍に嫁ぐが後に銭謙益の側室となる。 柳如是詩 更漏子 聽雨二首、 浣溪沙 五更、 南?子 落花 |
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91.明 | 李香君 | りこうくん | 生没年不明:1699年后妃 |
名李香,南京人,?秣陵教坊名妓,秦淮八?之一。自孔尚任的《桃花扇》于1699年?世后,李香君遂?名于世。李香君与 | |||
93明・清 | 徐燦(徐湘蘋) | じょしょうひん | (1610- 1678) |
徐湘蘋)徐燦 漢族?字湘蘋?又名明深?長洲人(今江蘇蘇州)。 拙政園詩集二 踏莎行 唐多令 永遇樂 如夢令 蔔運算元 |
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94清 | 顧太清 | こたいせい | |
(1799年−1877年)中國清朝滿洲?藍旗の人,本名西林覺羅氏,原名鄂春,後改姓して顧,名を春とする。字は梅仙といい,又、子春とした。道號を太清としたのでこの名で作詩者名となる。 天遊閣集、東梅漁歌、紅樓夢影 |
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96清・末 | 秋瑾 | しゅうきん | 1875 - 1907年 |
清末の女性革命家、詩人。18歳のときに結婚したが、義和団運動に発憤して家庭を捨てて、日本に留学し、反清革命運動に身を投じた。1905年、日本政府が出した「清国留学生取締規則」に憤激し、留学を打ち切って帰国。その後も革命運動を続けたが処刑された。 對酒 |
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