烏孫公主(劉細君)


悲愁歌 烏孫公主 劉細君
悲愁歌 烏孫公主(劉細君) <108>U李白に影響を与えた詩542 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1443


悲愁歌
吾家嫁我兮天一方,遠託異國兮烏孫王。
穹盧爲室兮氈爲牆,以肉爲食兮酪爲漿。
居常土思兮心内傷,願爲黄鵠兮歸故ク。
漢王室であるわたしの家は、わたしを天涯の西国に)嫁がそうとしている、遠く異民族の国である烏孫王の許へ嫁ぎゆかせるのである。
その国の風俗はテントの部屋で、毛氈を壁としている。 肉を常食として、馬乳製飲料を飲み物としている。
この異郷に居住してふだんから漢の地を思いしのんで心の中は悲しい思いなのだ、願うことなら黄鵠となり、故郷に帰りたいのである。


現代語訳と訳註
(本文) 悲愁歌
吾家嫁我兮天一方。遠託異國兮烏孫王。
穹盧爲室兮氈爲牆,以肉爲食兮酪爲漿。
居常土思兮心内傷,願爲黄鵠兮歸故ク。


(下し文)
悲愁歌
吾が家【いえ】我を嫁す、天の一方。遠く異國に託す  烏孫王。
穹盧【きゅうろ】を室と爲し 氈【せん】を牆【かき】と爲し,肉を以て食と爲し 酪【らく】を漿【しょう】と爲す。
居常【きょじょう】土を思して心内に傷め,願はくは黄鵠【こうこく】と爲りて故クに歸らん。


(現代語訳)
漢王室であるわたしの家は、わたしを天涯の西国に)嫁がそうとしている、遠く異民族の国である烏孫王の許へ嫁ぎゆかせるのである。
その国の風俗はテントの部屋で、毛氈を壁としている。 肉を常食として、馬乳製飲料を飲み物としている。
この異郷に居住してふだんから漢の地を思いしのんで心の中は悲しい思いなのだ、願うことなら黄鵠となり、故郷に帰りたいのである。


(訳注)
烏孫公主(劉細君)
烏孫公主 漢の武帝の時、西域、伊犂地方、トルコ系民族国家の烏孫国に嫁した漢の皇女で、名は劉細君という。江都王・劉建の娘で、武帝の従孫であった。異民族との和親を図るための政略結婚で、王昭君が匈奴に嫁いだのは、この劉細君の婚姻の七十余年後になる。どちらも漢王朝の対西域政策(おもに匈奴)によるものである。 
・公主 天子の娘。


吾家嫁我兮天一方、遠託異國兮烏孫王。
漢王室であるわたしの家は、わたしを天涯の西国に)嫁がそうとしている、遠く異民族の国である烏孫王の許へ嫁ぎゆかせるのである。
・吾家 わたしの家は。漢家は。劉家は。 ・兮 上古の詩によく見られる、リズムをとり、語調を整える辞(ことば)。
 ・遠託:遠くとつぐ。・託:憑る。寄せる。まかせる。頼る。 
・異國 異民族の国。ここでは烏孫国になる。  
・烏孫王 烏孫の王。劉細君が烏孫王に嫁いだのは、紀元前105年(武帝の元封六年)のこと。

穹盧爲室兮氈爲牆、以肉爲食兮酪爲漿。
その国の風俗はテントの部屋で、毛氈を壁としている。 肉を常食として、馬乳製飲料を飲み物としている。
・穹廬 弓なりに張った円いドーム状のテント。
・氈 毛(け)むしろ。もうせん。
・牆かき。塀。境。壁。
・以肉爲食:(獣)肉を(常)食とする。
・酪爲漿 馬乳飲料を。・酪 馬ちちざけ。ミルク。乳製飲料。・漿 どろりとした飲み物。濃いめの液体。こんず。汁。

居常土思兮心内傷、願爲黄鵠兮歸故ク。
この異郷に居住してふだんから漢の地を思いしのんで心の中は悲しい思いなのだ、願うことなら黄鵠となり、故郷に帰りたいのである。  
・居常 ふだん。平生。日常。 
・土思 ふるさとを思いしのぶ。 
・心内傷 心のなかでいたましい思いをする。
・願爲 願わくば…となり。
・黄鵠 黄色みを帯びた白鳥。渡り鳥で、秋には南方に帰っていく。 
・歸 故郷など本来居るべき所に戻っていくこと。かえる。 
・故ク ふるさと。ここでは、漢の地を指す。




秦の末年、匈奴が冒頓単于のもとでモンゴル高原を統一し、さらに前漢の孝文帝の時代になって、その周辺国であった楼蘭,烏孫,呼?およびタリム盆地の26国は匈奴に征服された。その際、烏孫王であった難兜靡(なんとうび)は殺され、子の昆莫(こんばく)は匈奴のもとで育てられる。
やがて昆莫は匈奴で手柄を立てるようになり、老上単于(在位:前174年 - 前161年)から烏孫の民を返され、西城を鎮守しながらも、次第に勢力を増していった。
紀元前161年、老上単于が死ぬと、昆莫は烏孫の民を引き連れ、西へ移動し、イシク湖周辺(現在のキルギス)にいた大月氏を駆逐して烏孫国を建国した。烏孫は次第に強大となり、匈奴の勢力範囲に属しながら、匈奴の会議に出席しなくなった。
烏孫は遊牧民なので、その習俗はほとんど匈奴と同じである。馬が多く、富人になると4〜5千匹も所有する。前漢の張騫は匈奴と烏孫を切り離し、漢に服属させるべく、武帝に上奏。武帝は張騫を中郎将に任命し、300人の部下と1人につき2頭の馬、数万の牛と羊を引き連れ、さらに数千万の黄金と絹織物を携えさせ、節をもった副使多数とともに烏孫へ派遣した。烏孫王の昆莫は単于に対するのと同じ儀礼で漢の使節と面会し、天子の賜り物に拝礼した。そこで張騫は漢と対匈奴の共同戦線を張ることを提案した。
烏孫は千匹の馬を結納として送り、漢は皇族の娘である江都公主を嫁にやった。昆莫は公主を右夫人とし、匈奴からもきた嫁を左夫人とした。紀元前100年頃のことである。しかし昆莫は自分が老齢だといい、公主を孫の岑陬に娶らせた。岑陬は江都公主を娶り、一女少夫を生んだ。江都公主が死ぬと、漢はふたたび楚王劉戊の孫の解憂を公主とし、岑陬に娶らせた。