h五代十国 |
唐 618年 - 690年・705年 - 907年 |
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宋 960 - 1127 |
遼 983-1066 |
西夏1032-1227 |
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金1115-1234 |
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五代十国 907年〜960年 |
ID | 詩人名 よみかな / 事項 | 生歿年/作品 |
581 | 貫休 | 832―912 |
政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)、歴城(現在の山東省済南市)の人。 歴城(山東)出身。字は幼安、号は稼軒。華北に住し、采石磯の役での金軍の動揺に乗じて挙兵すると初めは耿京に従い、耿京が張安国に殺されると安国を捕えて宋に帰順し、承務郎とされた。孝宗期には各州知事を、後に湖北・江西・湖南の安撫使を歴任し、任地の治安民政を安定させた。主戦論者だったために和平派の弾劾で罷免され、まもなく浙東安撫使・鎮江知府に任命されたが、勅使到着前に歿した。朱熹とも親交があり、朱熹の歿した際には偽学の禁を冒して追悼・埋葬した。政治家としては大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては名声を博し、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数多く残している。また様々な題材での詞・漢詩も残しており『稼軒集』などが現在に伝わっている。北宋の蘇軾と並び「蘇辛」と称されることもある。検索エンジン「百度」の社名は、彼の作品『青玉案』に由来。 |
春晩書山家屋壁 | |
582 | 羅隱 | 833〜909 |
五代の詩人。字は昭諫。本名は横。江東生と自号する。呉越、新城の人。晩年、呉越王銭鏐に仕えて、銭塘県令などを任じた。後梁の朱全忠に諫議大夫として召されるが行かず。『舊唐書・列傳・羅弘信・子威』「錢塘人羅隱者,有當世詩名,自號江東生。」或いは「江東人羅隱者,佐錢鏐軍幕」(『舊五代史・梁書』)ともする。 | 自遣(得即高歌失 即休) 江南行 (江煙涅雨蛟?軟) 蜂(不論平地與 山尖) |
1 | 馮延巳(ふうえんし) | 903-960 | ||
中国、五代の南唐の詞人。一名延嗣。字(あざな)は正中。広陵(江蘇(こうそ)省揚州)の人。初め南唐の中主李(りえい)に書記として仕え、のちに宰相に至った。政治家としてはあまり高く評価されず、もっぱら詞人として知られる。その詞は多く士大夫(したいふ)の閑情や男女の離情を歌い、作風は閑雅、艶麗(えんれい)を極める。唐・五代の詞人中、北宋(ほくそう)の詞壇にもっとも大きな影響を与えた。詞集には、宋代に入って外孫の陳世修の編んだ『陽春集』があるが、これには晩唐・五代・北宋前期の詞人の作品が数多く混入している。 | 謁金門 | |||
2 | 馮道 ;(ふうどう) | 882-960 | ||
瀛州景城(河北)の出身。字は可道、号は長楽。劉守光・李存勗に仕えて荘宗に翰林学士とされ、明宗のときに中書侍郎・平章事とされた。以後、後晋を滅ぼした契丹を含む五朝八姓十一君に仕え、『資治通鑑』『新五代史』など朱子学が主潮となった後世からは破廉恥な無節操漢と排撃されたが、常に人民の安定に尽くし、時人からは寛厚の長者と讃えられ、李卓吾も「孟氏曰く、社稷を重しとなし君を軽しとなす。まことに至言なり。馮道、之を知れり」と絶賛した。 |
天道 | |||
3 | 李建勲 りけんくん | 未詳-952 | ||
隴西人。南唐の李昇に仕えてその建国に尽力し宰相に任ぜられた。941年辞して帰郷。後に再び召されて司空になり更に司徒となる。南京の東北の鍾山に別荘を建てて引退した。主君より、鍾山公を以てよばれた。 |
宮詞 | |||
4 | 張泌 ちょうひつ | 生没年不詳 | ||
6 張 泌(生卒年未詳)泌は一にnに作る。字は子澄。常州(江蘇省武進)の人。はじめ句容(江蘇)尉となったが南唐後主(李U)に召されて監察御史となり、考功員外郎、中書舎人に至り、のちに内史合人に改められた。それによって宋に仕え郎中に遷された。その詞は花間集に二十七首収められている。花問集の中では韋荘の清麗さに近く、また良く似ている。 |
生査子 蝴蝶兒 |
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5 | 毛文錫 もうぶんしゃく | (913年前後在世) | ||
南陽(今河南南陽)の人,14歳にして進士及第した。前蜀の王建に仕えて翰林學士となり914年樞密使,916年文思殿大學士となった。ついで司徒を拜したが其の後、罪を得て茂州司馬に貶められた。925年前蜀は後唐に滅ぼされ投降、のち後蜀皇帝王衍に仕え、歐陽炯等とともに?庭に供奉して詞章の事にあずかった。その詞は花間集に31首収められている。その作風は温韋の詩風をでないものである。 |
醉花間 | |||
6 | 牛希済 ぎゅうきせい | 872年頃〜未詳 | ||
隴西の人。牛?のおい。翰林学士、御史中丞に任じられた。後唐に仕えてからは雍州節度副使に任じられた。後蜀皇帝王衍に仕え、翰林學士となったので牛学士と呼ばれていた。 |
生査子 | |||
7 | 南唐中主・李mりえい | 916-961 | ||
もとの名を景通。字は伯玉。南唐の二代中主元宗。在位945〜961。南唐の烈祖(李?)の長男。昇元三年(939)、烈祖が呉から独立すると、斉王に封ぜられた。保大元年(943)、烈祖の死後に即位。保大四年(946)に?を滅ぼして福建を併せ、九年(951)には楚を滅ぼして湖南を併せた。しかし後周に圧迫されて、江北十四州を失陥した。このため帝号を去り、国主と称して、領土の保全を図った。文学を愛し、多くの詞を残した。南唐二主のひとり。 |
浣溪沙 山花子 | |||
8 | 欧陽炯 おうようけい | 896-971 | ||
中国,五代の詞人。益州華陽(四川)の人。前蜀の後主王衍に仕えて中書舎人となった。前蜀が後唐に亡ぼされたので、王衍に従って洛陽に入ったが、孟知祥が後蜀を建てたので、ふたたび蜀に入って仕官した。蜀主孟昶の940年花間集の序文を書いたのであろう。ただし花間集中に欧陽舎人とあるので中書舎人であったのかとおもわれる。949年に翰林学士となり、961年に門下侍郎典戸部尚言回平章事(宰相)となっている。965年後蜀が亡び、宋に降服した。そののち宋に仕えて右散騎常侍から翰林学士をへて左散騎常侍となり、971年76歳で卒した。
率直で放縦な性質の人であり、長笛を吹くのが上手であったという。その詞は花間集に17首を収めている。尊前集に31首収める。 |
浣溪沙 三字令 南郷子四首 賀明朝二首 江城子 |
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9 | 和凝 わぎょう | 898-955 | ||
字は成績、都州須昌(山東省東平県)の人。幼少のころから聴敏で、学問を好み、一読した書はみなその大義に達していた。
後進のものを世話するのが好きで、賢不肖にかかわらず、虚心をもってその仕進の道を開きみちびいたので、たいそう評判がよかったといぅ。文章をつくるにはその分量の多いことが得意であった。花間集に二十首、王国経の輯本には二十九首を収めている。 |
薄命女 | |||
10 | 顧夐 こけい | 生没年不詳 | ||
前蜀に仕えて刺史となり、ついで後蜀の孟知禅に仕えて大尉にまでなった。このほかの詳しい伝記はわからない。花間集に五十五首を収めている。酔公子詞はとくにその当時称賛されたという。温韋の詞風をうけた花間派の艶美な特色をそなえた詞人として重きをなしていた詞人のようである。 |
河傳 甘州子 浣溪沙 酒泉子 楊柳枝 訴衷情 酔公子 | |||
11 | 孫光憲 そんこうけい | ?―967 | ||
字は孟文。葆光子と号した。貴平(四川省雙流県東南)の人。その著北夢瑣言に富春(折江)の人とあるのは郡望によったのである。高季興(南平の王)三代に仕え、刑南節度副使、検校秘書少監・兼御史中丞を歴任した。家は代々農業を事としていたが、かれは学問を好み、読書に耽り、数千巻の書籍を蒐集し、また自分で抄写をするという熱心さで、孜々として書物の校勘につとめ、老年になっても廃止しなかった。
花間集に六十首を収められている。 |
菩薩蠻 思帝郷 謁金門 | |||
12 | 魏承班 ぎしょうはん | 生没年不詳 | ||
詳しい伝記はわからない。父は弘夫といい、前蜀王建の養子となり、王宗弼の名を賜わり、斉王に封ぜられた。承班も前蜀に仕えて?馬都尉となり、大尉の官に至った。花間集にその詞十五首を載せている。 |
木蘭花 生査子 漁歌子 | |||
13 | 鹿虔? ろくけんい | 生没年不詳 | ||
伝記は詳しくわからない。後局のとき進士に及第して学士となり、後主孟雅に仕えて広政年間938−965年永泰軍節度使となり、検校大尉に進み、太保を加えられた。欧陽桐・韓踪・閻選・毛文錫らとともに、小詞に工であったので後主孟昶に供奉した。花間集に六首収めている。 |
臨江仙 | |||
14 | 閻選 えんせん | 生没年不詳 | ||
伝記は詳しくわからない。前蜀のときの布衣(仕官しない人)であったという。あるいは後局の人ともいう。前出鹿虔?の伝にもあったとおり、後蜀の孟昶の宮廷に、欧陽炯・毛文錫・鹿虔?らと小詞をもって供奉したといぅが、花間集には閻処士とあって孟蜀に仕官したようには見えない。その詞は花間集に八首を収めている。尊前集の二首をあわせて十首伝わっている。臨江仙詞が佳いと言われているが、河伝の秋雨を詠じた詞の平淡な美しさは、濃艶を誇る花間派の詞としては却ってめずらしい。 | 河傳 | |||
15 | 尹鶚 いんがく | 生没年不詳 | ||
伝記は詳しくわからない。成郡(四川)の人。前蜀の王衍に仕えて翰林校書となり参郷に至った。李cとは親しく交わったという。詞は花間集に六首を収めているだけである。尊前集の十一首をあわせて、すべて十七首の詞が伝わっている。 |
臨江仙 | |||
16 | 南唐後主・李U(りいく) | 937−967 | ||
もとの名を従嘉。字は重光。南唐の三代後主。在位961〜975。南唐の元宗(李m)の六男。はじめ安定郡公に封ぜられ、のちに鄭王に封ぜられた。建隆二年(961)、中主の死後、金陵で即位した。詞や音曲を愛し、国費を遊興にかたむけた。唐の国号を去り、宋に入貢して臣従の姿勢をしめしたが、開宝八年(975)に曹彬率いる宋の南征軍によって滅ぼされた。開封に連行され、違命侯に封ぜられた。太宗の時代になって隴西公となったが、まもなく死去した。毒殺説も根強い。南唐二主のひとり。 |
清平楽 虞美人 子夜歌 烏夜亭 菩薩蠻 浣溪沙 采桑子 漁父 | |||
17 | 毛熙震 もうきしん | 生没年不詳 | ||
伝記は詳しくわからない。蜀の人。秘書藍の官にあった。宋の周密が斉東野語にかれの詞を許して、毛熙震集ただ二十余調、新警にして?薄(軽薄の意)ではないといっている。花間集に二十九首を収めている。花間集の中では欧陽炯や牛?などとならんで情致の莫しいこの一派のすぐれた詞人であると言ってよい。 |
清平楽 河満子 定西番 木蘭花 後庭花 菩薩蠻 | |||
18 | 李c りじゅん | 生没年不詳 | ||
字は徳潤。先祖はペルシャ(波期)の人。唐敬宗朝(825−826)に宮室を建築する沈香木用材を献上したペルシャ(波期)の商人に李蘇沙というものがあり、その子孫に李cと均の兄の孩があった。兄の孩は小字を李四郎といい、字は廷儀という。唐僖宗に従って蜀に入って(中和元年八八一であろう)率府率となったという。李均の妹の李舜絃も前局王相の昭儀(女官の名称)となって宮廷に入り、これも詞をよくしたといわれている。李詞は局の秀才(科挙の名称)となり、花間集にも李秀才とあるが、そののちの官途についてはよくわからない。小詞に工なことで蜀の後主の宮廷に仕えていた。梓州(四川省三台県)の人という。前蜀が亡んでからは出仕せず、感慨を詞に寄せたという。花間集に三十七首収めている。 |
浣溪沙 酒泉子 望遠行 菩薩蠻 西渓子 河傳 | |||
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宋 960 - 1127 |
遼 983-1066 |
西夏1032-1227 |
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金1115-1234 |
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