● 律令体制とその崩壊 |
西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝により「開皇律令」が編纂され、唐はそれを受け継いで、何度か修正が加えられつつ運用されていた。 |
律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に当てはまらないようなことを解決するために出された詔勅のうち、それが法として新たに加えられるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。 |
後述する三省六部、九品制、均田制、府兵制などは令によって規定されるもので、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼んでいる。 |
唐律令は何度か変更がなされ、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。 |
ところが、この時すでに律令が現実の政治状況と乖離していたとの指摘がなされており、それに代わって詔勅と格が現実に適応するためのものとして重要な役割を果たしたとされる。律令は体制の中心としては権威を持っていたが、実際に運用するに当たっては律令がそのまま適用されるというわけではなかった。 |
さらに安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、格式が重要視され、律令は形骸化する。 |
● 科挙と貴族政治 |
初唐においては南北朝時代からの風潮を引き継いで、未だ貴族勢力が強い力を保持していた。皇室の李氏を含めて初唐の支配者層を形成したこれらの集団はいずれも同じ関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴貴族集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。 |
この関隴系の貴族は鮮卑系の北朝貴族であり、この他には漢族と北斉の流れを組む山東系貴族、そして南朝の流れを組む南朝貴族がある。血脈の尊貴さという考え方は魏晋南北朝時代を通して、強く刷り込まれており、唐が建国された後でもそれは変わらず、長い歴史を持ち最高の名門とされる山東系の者達から見れば、関隴系は土族としか見えなかった。 |
これに対して自らより家格が高いとされる家と婚姻関係を結ぶ事で自らの家格を上げることが行われていたが、この場合は下の家格の者が上の家格の者に対して莫大な結納金を積むのが常であった。このような状態を打破するために太宗は貴族の格付けのための本である『氏族志』の編纂を命じ、そこで皇室の李氏を第一等とした。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。 |
このようなことが行われることは、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたということを示している。 |
貴族勢力は政治に影響力を及ぼすに当たり、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を支配下に置いており、貴族勢力を脅かそうとするものをこの力で排除していた。 |
上位官僚には課役の免除、刑罰を金銭であがなえるなどの特権が与えられており、また資蔭と呼ばれる官僚採用法があり、親の官品に応じて子が任官できる制度である。初唐の政治は貴族により掌握されており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。 |
その一方で隋より受け継いだ科挙も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。さらに前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。 |
この体制を崩そうとしたのが武則天である。武則天自身も関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の後押しは難しい状態にあった。そこで武則天は科挙を通過してきた者を積極的に登用し、貴族政治を崩そうとした。 |
武則天の政治自体は705年の時点で終わったものの、次に権力を握った玄宗は武則天が登用した閣僚を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行なった。しかし玄宗が後期に堕落したことで、この方針は一時期遠のく。 |
中期以降の唐では、科挙出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職に就けない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめることはできず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験する者も増える。 |
牛僧孺と李宗閔を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、政策争いから次第に党派争いへと堕し、この時期にはすでに唐の国力は傾いていたこともあって反って国力を弱める結果となった。 |
初唐の詩人たち |
唐 618年 - 690年・705年 - 907年 |
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宋 960 - 1127 |
遼 983-1066 |
西夏1032-1227 |
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金1115-1234 |
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● 初唐期の詩人たち |
ID | 詩人名 | よみかな | 作品名 |
151 | 魏徴 | ぎちょう | 580年 - 643年 |
唐初の政治家・学者。癇癪を起こした太宗に直諫(じかに諫言)することで有名であり、魏徴死亡時太宗は非常に哀しんだという。曲城(山東省)の人。字(あざな)は玄成。太宗に召し出され、節を曲げぬ直言で知られる。「隋書(ずいしょ)」「群書治要」などの編纂(へんさん)にも功があった。 | 述懐 | ||
152 | 上官儀 | じょうかんぎ | 608?年- 665年 |
文才があり、五言詩をもっとも得意とし、多くは命を受けて作り献上した。詞句は婉麗にしてたくみで整っており、士大夫に模倣されて上官体と称された。皇后であった則天武后を廃そうと高宗に建議したことにより、則天武后(武則天)の怨みを買い、後に梁王・李忠の「謀反」事件に関連させられ、獄死した。 | 入朝洛堤歩月 | ||
153 | 王勃 @ | おうぼつ | 650年- 676年 |
王勃の作品には、南朝の遺風を残しながら、盛唐の詩を予感させる新鮮自由な発想が見られる。「初唐の四傑」の一人。幼くして神童の誉れ高く、664年に朝散郎となり、ついで高宗の子の沛王・李賢の侍読となってその寵を受けたが、諸王の闘鶏を難じた「檄英王鷄文」を書いて出仕を差し止められ、剣南(四川省)に左遷された。?州(河南省霊宝市)の参軍となったときに罪を犯した官奴を匿いきれなくて殺し、除名処分にあった。 この事件に連座して交趾の令に左遷された父の王福時を訪ねる途中、南海を航行する船から転落して溺死した。 |
滕王閣, 送杜少府之任蜀州唐 | ||
154 | 盧照鄰 B | ろしょうりん | 生没年未詳。 |
范陽(河北省)の出身。幼少より曹憲・王義方に従って経史と小学を学び、詩文に巧みであった。初めはケ王府の文書の処理係である典籤となり、王(唐高祖の子・元裕)に重用された。 のち新都(四川省)の尉となったが病のために職を辞し、河南省具茨の山麓に移住した。病が重くなって、ついに頴水に身を投じて死んだ。 その詩は厭世的で悲しみいたむ作が多い。長安の繁栄のさまを詠じた「長安古意」が最もよく知られ、『唐詩選』にも収められている。著に『盧昇之集』7巻と『幽憂子』3巻がある。 | 長安古意 | ||
162 | 七歳女子 | (623? - 705年) | |
則天武后(武則天)の時代・周(武周)の七歳の女子。則天武后(武則天)が神童ぶりを耳にし、召し出して送別詩を作ることを命じたところ、即座にこの詩を作ったという。 | 送兄(別路雲初起) | ||
155 | 駱賓王 う C | らくひんおう | 640?- 684? |
「初唐の四傑」の一人。7歳からよく詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。特にその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句を作るので「算博士」の俗称がある。(浙江省)の出身。初めから落魄し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直。高宗の末年に長安主簿となり、ついで武后の時に数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷される。 出世の望みを失い、官職を棄てて去った。684年に李敬業が兵を起こすと、その府属となり敬業のために檄文を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。 |
易水送別, 霊隠寺 , 詠鵞 | ||
156 | 劉廷芝/劉希夷 | りゅうていし・りゅうきい | 651年-679年 |
劉 希夷(りゅう きい、651年(永徽2年) -679年(調露元年))は中国唐代の詩人。字は庭芝、廷芝。一説に名が庭芝で字が希夷ともいわれる。汝州(河南省汝州市)の出身。幼くして父を失い、母と共に外祖父のもとに身を寄せ20歳頃まで過ごした。容姿はすぐれており、物事にこだわらない性格なので素行が悪かった。酒と音楽を好み、琵琶の名手であった。675年(上元2年)進士となるが仕官せずに各地を遊覧した。「年年歳歳花相似歳歳年年人不同」で有名な詩「代悲白頭翁」が代表作。 | 代悲白頭翁 秋風引 楊柳枝詞 石頭城 公子行 | ||
157 | 楊炯 A | ようけい | 生年不詳−692 |
(ようけい、生年不詳−692年)は中国・唐代初期の詩人。字は不詳。王勃・盧照鄰・駱賓王とともに「初唐の四傑」と称せられる.華陰(陝西省)の出身。幼時から慧敏でよく文章を作り、661年に神童に挙げられ校書郎を授けられた。681年、崇文館学士になった。則天武后の時代に梓州司法参軍に左遷されて、のち盈川の令となった。著に『盈川集』がある | 従軍行 夜送趙縦 | ||
158 | 陳子昴 | ちんすこう | 661- 702 |
六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。 | 登幽州臺歌 | ||
159 | 上官婉兒 | じょうかんえんじ | 664- 710 |
上官儀の孫で才媛。後に、政変のため殺された。 | 綵書怨 | ||
170 | 寒山 | (かんざん) | 生没年不詳 |
(初)唐・貞観時代の風狂の詩僧。現・浙江省東部にある天台山南西の国清寺で豊干禅師に師事。天台山の寒巌洞に住む。深く仏教哲理に通じ、文殊菩薩の化身とされた。拾得とともに「寒山拾得」として有名。 | 寒山詩(重巖我卜居) | ||
160 | 宋之問 | そうしもん | 652〜712 |
宋 之問(そうしもん、656年?−712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。字は延清。?州弘農(現河南省、『旧唐書』より)あるいは汾州(現山西省、『新唐書』より)の人。沈?期とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。 汾州出身。字は延清。科挙進士科に及第して武后に認められ、張易之と結んでいたために中宗復辟で瀧州(広東羅定)に流されたが、洛陽に潜行して張仲之に庇護され、仲之の武三思暗殺を密告して赦免・登用された。太平公主に与し、横暴・驕慢として越州長史に遷されたが、以後も素行を修めず欽州・桂州に流され、玄宗に自殺を命じられた。 娘婿の劉希夷に、詩(代悲白頭翁)の“年年歳歳花相似たり”の句の譲渡を求めて拒まれ、人を遣って土嚢で圧殺させたという。 |
下嵩山歌(下山歌) | ||
161 | 沈栓期 | しんせんき | 656?- 716? |
宋之問とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。 字は雲卿。相州内黄の人。上元二年(675)、進士に及第した。協律郎・考功郎中・給事中を歴任した。張易之の庇護を受けたが、武周朝が倒れて張易之が殺されると、賄賂を取った罪で驩州に流された。その後、呼び戻されて起居郎・修文館直学士となり、中宗にとりいって、中書舎人・太子少・事にいたった。宋之問とともに、「沈宋」と併称される。 |
?山 臨高臺 | ||
163 | 郭振「郭震」 | (かく しん) | 656年 - 713年 |
中国・唐の詩人。魏州貴郷(河北省大名県)の出身。字は元振(『唐詩選』の通行本は、姓名を郭振と誤っている)。 身の丈七尺の偉丈夫で、任侠を好み、高宗の咸亨(かんこう)4年(673年)、18歳で進士に及第、則天武后に認められて右武衛鎧曹参軍・奉宸監丞となった。その後は大将軍としてしばしば西北に出陣、吐蕃(チベット)・突厥(トルコ)族を撃破して名将と謳われ、景雲2年(711年)には同中書門下三品・吏部尚書に進んだ。しかし玄宗の即位の初め、天子に逆らって新州(広東省新興)に流され、開元元年(713年)、罪を軽減されて饒州(江西省波陽=?陽)司馬に遷されたが、途中で死んだ。 |
子夜四時歌 春歌(陌頭楊柳枝) | ||
164 | 朱放 | (しつほう) | 生没年不詳 |
唐の詩人。字は長通。襄州の人。越の溪に隠棲する。江西節度參謀となる。後、貞元の初めに、拾遺に召されたが就かなかった。 | 題竹林寺(歳月人間促) | ||
165 | 張 | (ちょうこう) | 生没年不詳 |
初唐の詩人。官僚。張紘〔ちゃうこう(ちょうこう)ともする。 | 怨詩(閨怨去年離別雁初歸) | ||
166 | 盧撰 | (ろせん) | 生没年不詳 |
初唐の景龍年間の人。河南省臨の人。 | 南樓望(去國三巴遠 | ||
167 | 陳子良 | (ちんすりょう) | 生没年不詳 |
初唐の人だが、『古詩源』に採られているので、このページに載せた。呉の人。唐の太子学士となり、貞観中に没した。 | 送別(落葉聚還散)七夕看新婦隔巷停車 | ||
168 | 李嬌 | (りきょう) | (644〜713) |
字は巨山。趙州賛皇の人。竜朔三年(663)、進士に及第した。武則天の時代、監察御史から同鳳閣鸞台平章事(宰相)にいたった。中宗が復位した後も同位にあったが、玄宗の即位とともに盧州別駕に左遷された。嫉妬深く、他人の出世や文才をねたんだという。。 | 『李?雑詠』 |