五胡十六国 304-439 |
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南北朝 439-589 |
北魏 439-589 |
北魏 |
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西魏 535-556 |
東魏 534 - 550 |
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北周 556-581 |
北斉 550-577 |
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ID | 詩人名 よみかな/ 事項 | 作品名 | |
78 | 元帝 (東晋) | 276年 〜322年 | |
元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬?、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王司馬渾がいる。 | 別詩(別罷花枝不共攀) | ||
郭璞 かくぼく | 276-324 | ||
西晋・東晋の文学者・卜者。字は景純。本籍地は河東聞喜(現山西省)。文才と卜占の術により建国まもない東晋王朝の権力者たちに重用され、史書や『捜神記』などの志怪小説では、超人的な予言者・妖術師として様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通ずるのみならず、古典にも造詣が深く、『爾雅』『方言』『山海経』に注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」「江賦」などが代表作とされる。 寒門の家に生まれ、訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から『青嚢中書』という書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、いにしえの京房や管輅をも凌ぐほどであったという。 |
贈温嬌 遊仙詩 | ||
謝尚 しゃしょう | 307-357 | ||
字を仁祖という。東晉の人,豫章太守の謝鯤の子,東晉太傅の謝安の從兄のあたる。音律に精通し,舞蹈をよくし,書に秀でている。なお談義説法がうまかった。?任したのは江州刺史、尚書僕射,鎮西將軍と呼ばれた。 | 大道曲 | ||
79 | 王羲之 | 303年 - 361年 | |
東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。行書・楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之と共に二王と呼ばれる。「蘭亭序」「楽毅論」「十七帖」などの作がある。 | 「蘭亭序」(353)「楽毅論」「十七帖」 | ||
殷仲文 | 未詳 - 407年 | ||
殷仲文(?−407) (晋) 陳郡(河南省惟陽県)の人。才藻があり、容貌は美。従兄の仲堪の、会稽王道子への推薦によって、驃騎参軍に用いられた。桓温の女をめとり、新安太守にまでなった。のち、桓玄に仕えて、礼遇されたが、文が晋に謀叛して失敗してからは、また晋朝に帰して安帝に仕え、尚書から東陽太守にうつされた。かれはもと名望があったので、自分では必ず朝政に当てられると思っていたのにかえって地方官に出されたので、意は愈々平かならず、ついに義熙(405-418)中、駱球らと反を謀って誅せられた。(文) |
南州桓公九並作 |
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謝叔源 しゃしゅくげん (謝混 しゃこん) | ?−412 | ||
(晋) 謝混、字は叔源、幼名は益寿、陽夏(河南省) の人。若いころからその名があらわれ、善く文を作る。孝武帝が晋陵公主の壻とすべき士を求めていた時、王cは混を推したが、まもなく帝は崩じて、一時、停頓した。しかし後には、公主と結婚した。 泥の父と両兄とは張猛に害せられた。後に劉裕は猛をとらえて混に送りとどけると、混は猛の肝を剖き、なまのままでこれを食った。父の封爵をうけつぎ、また中書令・中領軍・尚書左僕射などに歴任したが、劉毅に党したとの理由で国を除かれ且つ誅せられた。 |
華南池 | ||
80 | 陶淵明(陶潜) | 365〜427 | |
(宋)六朝時代の東晋の詩人。江西の人。名は潜。淵明は字(あざな)。一説に名は淵明、字は元亮(げんりょう)。官職に就いたが、束縛を嫌い、彭沢(ほうたく)県の県令を最後に「帰去来辞(ききょらいのじ)」を作って官を辞し、故郷へ戻った。自然を愛する田園生活を送り、すぐれた詩を残した。詩では「飲酒」、文では「桃花源記」が有名。五柳先生。 80 陶淵明の詩 51.責子 陶淵明 |
「飲酒」「桃花源記」五柳先生。 | ||
81 | 僧肇(そうじょう) | (374/384―414) | |
魏晋時代,東晋の僧。鳩摩羅什の門下で〈解空(げくう)第一〉と称され,竜樹の空の思想を仏教の基礎としようとした。著書《肇論》4巻は魏晋仏教の代表的著作。 |
五胡十六国 304-439 |
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南北朝 439-589 |
北魏 439-589 |
北魏 |
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西魏 535-556 |
東魏 534 - 550 |
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北周 556-581 |
北斉 550-577 |
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ID | 詩人名 よみかな/ 事項 | 作品名 | |||
永明体 | |||||
孝武帝 劉裕 りょうゆう | 420-479 | ||||
(宋) 字は徳輿。宋の初代武帝(Wudi)。廟号は高祖。在位420〜422。彭城の人。劉翹の子。母は趙氏。寒人の出で、若いころは貧しく、遊侠の徒と交際した。はじめ東晋の冠軍司馬をつとめた。隆安三年(399)、輔国将軍劉牢之の参軍となり、孫恩の乱の鎮圧にあたった。元興元年(402)、劉牢之が桓玄と争って敗れると、桓玄の下に属した。桓玄が簒奪して楚帝を称すると、三年(404)に京口で兵を挙げてこれを討伐し、翌年には安帝を復位させた。 | 自君之出矣 | ||||
南平王鑠 なんぺいおうしゃく | 428-453 | ||||
(宋) 劉鑠、字は休玄。文帝三子武帝、四子である。453年元嘉三十年七月己巳(9月17日),劉鑠は兄長孝武帝劉駿により毒殺される。享年二十三?であった。20歳にして擬古詩30数首あり、陸機に次ぐものとされた。 | 白紵曲 擬行行重行行 何承天 | ||||
91 | 謝霊運 しゃれいうん | 特集ページあり | 385〜433 | ||
(宋) 南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。 謝靈運詩 | 東陽谿中贈答 | ||||
92 | 顔 延之 がん えんし | 384年- 456年 | |||
(宋) 南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。
還至梁城作 顔延之(延年) 詩<12-#1> 還至梁城作 顔延之(延年) 詩<12-#2> |
應詔讌曲水作詩 郊祀歌 贈王太常 夏夜呈従兄散騎車長沙 北使洛 五君詠五首 | ||||
謝瞻 (謝宣遠) しゃせん | (387−421) | ||||
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。かつて「喜霽詩」を作り、霊運はこれを写し、混は誅(讃辞)を記したが、王弘は「三絶なり」と、はめ称した。初め桓偉の参軍、のち劉裕に仕えて従事中郎となる。文選に有る詩は「九日従宋公戯馬台集送孔令詩」、「玉撫軍?西陽集別時為予章太守庚被徴還東」、「張子房詩」、「答靈運」、「於安城答靈運」がある。謝靈運(385-433)『愁霖詩』 に答えての詩である。(文) 答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#1> <63-#2> 於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#1> <64-#2> <64-#3> <64-#4> <64-#5> |
「九日従宋公戯馬台集送孔令詩」、「玉撫軍?西陽集別時為予章太守庚被徴還東」、「張子房詩」、「答靈運」、「於安城答靈運」 | ||||
謝恵連 しゃけいれん | (394〜433) | ||||
(宋) 会稽の太守であった謝方明の子。陳郡陽夏の人。謝霊運の従弟にあたる。大謝:霊運に対して小謝と呼ばれ、後に謝?を加えて“三謝”とも称された。元嘉七年(430)、彭城王・劉義慶のもとで法曹行参軍をつとめた。詩賦にたくみで、謝霊運に対して小謝と称された。『秋懐』『擣衣』は『詩品』でも絶賛され、また楽府体詩にも優れた。『詩品』中。謝恵連・何長瑜・荀雍・羊濬之らいわゆる四友とともに詩賦や文章の創作鑑賞を楽しんだ。四友の一人。
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擣衣 秋懐 泛湖歸出樓中望月 | ||||
王景玄(王微) おうけいげん(おうび) | 415-443 | ||||
(宋) 王微、字は景文、琅邪の臨折(江蘇省)の人。学を好み通覧せざるはなく、よく文を作り、書画を能くし、兼ねて、音律・医方・陰陽・術数を解した。もと官情は無く、しばしばめされたが、疾と称して固辞した。何偃に書を送って世外に自適したいと言っていた。常に、門屋の一室に住んで、書を読み、古のことを玩賞し、終日端坐した。それで、席はすべて塵挨を生じたが、ただ、坐するところだけは、清らかだったという。(文) | 雑 詩 | ||||
王僧達 おうそうたつ | 423-458 | ||||
(宋) 琅邪臨沂の人。宋の太保王弘の子。王僧綽の従兄弟。 夙に聡明・好学で文章を能くし、文帝より臨川王の婿とされた。 尚書僕射・中書令などを歴任したが、三公に就けない不満を公言して孝武帝・顔竣に憎まれ、叛徒との通謀に陥されて獄死した。 死に臨んで顔竣の朝政誹謗を暴露し、顔竣刑死の原因となった。 子の王道?は新安郡に徙され、前廃帝の即位で帰京を許された。(古)(文) |
答顔延年 和瑯邪王衣古 | ||||
袁陽源(袁淑) えんようげん(えんしゅく) | 408-453 | ||||
(宋) 袁淑、字は陽源、袁豹の子。陳郡の陽夏(河南省)の人。若いときから風気があり、十余歳で姑夫(父方のおはむこ)の王弘に才を認められた。章句の学をおさめず、博く捗り多くに通じ、好んで文を作る。辞采ほっよいうちにもうるわしさがあり、才弁は縦横。臨川王の義慶はもとより、文学を好む人であって、袁淑はその諮儀参軍となる。のち、太子左衛率になったころ、文帝の長子なる元凶劭が反逆した。袁淑は、それに従わなかったので、害せられた。(文) | 倣曹子建楽府白馬篇 倣古 |
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劉鑠 りゅうしゃく (劉休玄りゅうきゅうげん) | 431-453 | ||||
(宋) 劉鑠、字は休玄、宋の文帝の第四子。九歳で南平王に封ぜられた。学を好み文才があって、まだ二十にならぬころ擬古三十余首を作り、時人は陸機の後継者だと評判した。文帝の長子なる太子助が父を殺して自ら偽位に即くや、中軍将軍などに任ぜられたが、孝武帝の義軍が宮中に入るに及んで帰順した。後、孝武帝は食中に毒薬を納れて鑠を殺させた。隋志には、集五巻。 | 擬古二首 擬行行重行行 擬明月何餃鮫 |
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93 | 鮑照 ほうしょう | 412頃-466 | |||
(宋) 六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。元嘉年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。現存する詩は241首と六朝時代の詩人としては比較的多く残っている。楽府詩を得意とし、それに仮託して寒門出身ゆえの人生の不遇や艱難を詠う内容が多い。典故にもとづいた旧来の表現に拘泥せず、好んで新奇な語を用い、風景や自らの感慨を力強くダイナミックな調子で詠う作風が特徴である。そうした作風は、同時代において通俗的で典雅さに欠けると批判されることもあったが、後世の唐代の詩人に大きな影響を与えた。唐の詩人杜甫は、李白の詩才を「清新なるは ?開府、俊逸なるは 鮑参軍」(「春日 李白を憶ふ」)と鮑照になぞらえて称えている。 | 擬行路難, 代出自薊北門行 代東門行 代放歌行 代白頭吟 代東武吟 代鳴雁行 代淮南王 |
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代春日行 代白紵舞歌辭 代行路難 梅花落 登黄鶴磯 日落望江贈荀丞 呉興黄浦亭萸中郎別 贈傅都曹別 發後渚 詠史 擬古 紹古辭 学劉公幹體 遇銅山掘黄精 秋夜 翫月城城西門廨中 | |||||
竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (@蕭衍・A沈約・B謝?・C王融・D蕭?・E范雲・F任ム・G陸?) | |||||
謝荘 しゃそう | 421-466 | ||||
(宋) 謝荘(421〜466) 字は希逸。陳郡陽夏の人。謝弘微の子。謝靈運の同郷、同族。七歳で文を作り、壮年に名声を得、始興王劉濬のもとで法曹行参軍となった。太子・劉劭が父・文帝を殺して自立すると、司徒左長史に任ぜられた。武陵王劉駿が劉劭を討つべく起兵すると、檄文を改作して京邑に宣布した。孝武帝(劉駿)が即位すると、吏部尚書に任ぜられた。明帝のとき、中書令に上った。「木方丈図」を作り、中国で最も古い木刻地形図として知られた。また詩文をよくした。『謝光禄集』。今に残る詩は、19首。 |
北宅秘園 | ||||
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94 | B謝眺 しゃちょう (謝玄暉 しゃげんき) | 464年- 499 | |||
(464-499 (南斉) 謝?、字は玄暉、陳郡の陽夏(河南省)の人。若いころから学を好み、文章は清麗であり、また草藻を善くした。五言詩に長じ、沈約は、「二百年このかた、このように、りつばな詩はない」と許した。南斉の随重なる隆は、辞賦を好む人で、謝?は、かれに仕え、文才をもって、はなはだ賞愛された。明帝が、まだ政を輔けていた時代に、中書郎・宜城太守となり、建武中には、尚書東部郎となる。東昏侯が徳を失うや、江祐らは、始安土なる遙光を立てようと謀り、謝膳にもはたらきかけた。しかし、謝?は拒んだので、それがもとで、獄に下され、殺された。隋忘には、集十二巻。唐の李白は、かれの詩を篤く好んだことは、有名である。 現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。竟陵八友のひとり |
遊東田, 玉階怨 王孫遊 金谷聚 同王主薄有所思 江上曲 同謝諮儀詠銅雀臺 入朝曲 京路夜發 和徐都曹出新亭渚 游敬亭山 |
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?使下都夜發新林至京邑贈西府同僚 酬王晉安 秋夜 離夜 臨渓送別 | |||||
陸厥 りくけつ (陸韓卿 りくかんきょう) | 473-499 | ||||
(南斉) 陸厥、字は韓卿、呉郡(江蘇省呉県)の人。若いころから風概あり、好んで文を作り、その五言詩は体が甚だ新奇である。かつて沈約と四声を論じた。永元の初めに、父の閑が誅せられようとしたとき、厥の弟なる綽は頸を抱き、代りに殺されることを求めたが、二人は、並びに殺された。厥もその罪に連坐して繋がれ、ついで赦されたが、父と弟との死を痛むのあまり、ついに、卒した。隋志には、集八巻。 | 奉答内兄希叔 中山王孺妾歌 |
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丘希範 きゅうきhん (丘遅 きゅうち) | 464-508 | ||||
(梁) 丘遅、字は希範、丘霊鞠の子、呉興の烏程(浙江省呉輿県南)の人。八歳で能く文を作る。その父は「気骨は我に似ている」といっていた。初め南斉に仕え、梁には武帝に仕えた。そのころ武帝は連珠を作り、群臣に詔して、そのあとを継いで作らせたが、丘遲の文は最も美であった。かれは帝に報せられ、司徒従事中郎にまで進み、官に卒した。その辞采は麗逸である。 | 侍宴楽遊苑送張徐州応詔詩 旦発漁浦渾 |
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95 | 鮑令暉 ほうれいき | 生卒年不詳。 | |||
南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。 略歴いわゆる寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉 ( 南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された 鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請假?》中講到僅有的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。 | 鮑令暉 代葛沙門妻郭小玉作 題書後寄行人 | ||||
江孝嗣 こうこうし | 生没年未詳 | ||||
南朝詩人。南齊の人。謝?との唱酬した詩有り。《謝宣城詩集》其の中に詩二首存り。 | 北戍瑯?城詩 | ||||
呉邁遠 ごまいえん | 生没年未詳 | ||||
男女贈答の詩が辞巧みに意新華麗である。 | 胡笳曲 古意贈今人 長想思 | ||||
王微 おうび | 未詳 | ||||
雑詩 | |||||
陸凱 りくがい | 未詳 | 贈范曄詩 | |||
湯惠休 とうえきゅう | 未詳 | 怨詩行 | |||
劉呉 りゅうご | 未詳 | 詩一首 | |||
沈慶之 しんけいし | 386〜465 | ||||
字は弘先。呉興郡武康の人。若くして勇気と腕力があった。年三十にして寧遠中兵参軍となる。武帝(劉裕)のとき、殿中員外将軍に任ぜられた。元嘉年間、雍州刺史の劉道彦が亡くなると、雍州の諸族が蜂起したので、建威将軍に任ぜられて征討にあたった。太子劉劭が文帝を弑すると、孝武帝(劉駿)に従って劉劭を討ち平らげ、鎮軍将軍・南?州刺史となった。孝建二年(455)、老年を理由に引退を願い出て、許されて始興公として屋敷に入った。のち、南郡王の乱や竟陵王の乱の平定にあたり、司空に上った。楼湖に移住し、家財は千万金を重ね、奴僕は千をかぞえた。孝武帝が亡くなると、遺命により柳元景らとともに前廃帝を補佐した。泰始元年(465)、江夏王劉義恭を立てて帝を廃そうと謀った柳元景らを告発して、柳元景・劉義恭らは殺された。帝をしばしば諫めたが、不興をかい、ついに死を賜った。 | 持宴詩 | ||||
96 | F任 ム じん ぼう (任彦昇 じんげんしょう) | 460年- 508年 | |||
(梁) 中国南北朝時代の文学者。字は彦昇。小字は阿堆。楽安博昌(現山東省寿光市)の人。南斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の1人。散文の分野で高く評価され、南斉・梁の時代に多くの表奏を手がけた。同じ八友の1人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。著作に『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。 | 贈郭桐盧出渓口見候余既未至郭仍進村維舟久之郭生乃至 贈徐徴君 別蕭諮議衍 | ||||
97 | A 沈約 しんやく (沈休文 しんきゅうぶん) | 441年- 513年 | |||
(梁)南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。 | 臨高臺 夜夜曲 新安江至清浅深見底貽京邑遊好 直学省愁臥 宿東園 二十一史・宋書 | ||||
別范安成 傷謝眺 石塘聽猿 游沈道士館 早發定山 冬節後至丞相第詣世子車中作 奉和竟陵王劉獻墓 | |||||
98 | C王融 おうゆう (王元長 おうげんちょう) | 467年- 493年 | |||
南北朝時代、南斉の政治家・文学者。字は元長。琅邪臨沂(現山東省臨沂市)の人。六朝時代を代表する名門貴族、琅邪王氏の出身。名門の出身に加えて文才にも優れ、南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の1人に数えられ、同じく八友の仲間である沈約・謝?らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。 | 三月三日曲水詩序 緑水曲 巫山高 蕭諮議西上夜集 和王友徳元古意二首 | ||||
張融 ちょうゆう (張思光 ちょうしこう) | 444-497 | ||||
字は思光。呉郡、呉の人。江南の名族だが家貧しく仕官の必要があり、宋の孝武帝のとき起家して新安王北中郎参軍となり、役得の多い華南の封渓県令に赴任した。 文才があり度を失した激しい文辞を好み、玄学の精神を体得し、〔天地の逸民〕と自称した。 484年には孔子をそしり免官された。南斉のとき司徒左長史にいたった。 「門論」を撰した。文集は「玉海」など数十巻あったが、「張長史集」1巻は現存する。 | 別詩 | ||||
劉繪 りゅうかい (劉士章 りゅうししょう) | 470頃在世 | ||||
字は士章、彭城の人。南康郡を為(おさ)む。郡人?の類(たぐい)の居る所。穢里と名す。 斉の劉繪(りゅうかい)は、南康郡を治めた。集十巻ある。有所思。 |
|||||
99 | 蘇小 | 未詳 | |||
錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州市。「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。 | 歌一首 | ||||
陸厥 りくけつ | 472年- 499年 | ||||
字は韓卿,?郡?の人。宋、明帝の時生まれる。齊の東昏の時沒,年二十八?。わかくして風概あり,屬文を好む,五言詩體に甚だ新奇なり。州の秀才に舉げられ,王晏のときわかくして主簿に傅せられる;遷って後ち、參軍に軍行す。永元初,父である閧ェ被誅される,厥と弟の絳は殉死した。 | 臨江王節士歌 | ||||
100 | 孔稚珪 こうちけい | 447〜501 | |||
会稽郡山陰の出身。字は徳璋。学問・詩文に優れ、蕭道成に文才を認められて起室参軍とされ、永明年間に王植の『晋律』改修にも参与した。廷尉、御史中丞と進み、493年の鬱林王即位に際して王融を告発して自殺させ、明帝より南郡太守とされ、東昏侯のときに太子・事・散騎常侍に至った。 | 遊太平山 | ||||
江淹 こうえん | 444-505 | ||||
江 淹(こう えん、444年 - 505年)は、中国南北朝時代の文学者。字は文通。本籍地は済陽郡考城県(現在の河南省蘭考県)。門閥重視の貴族社会であった六朝時代において、寒門の出身でありながら、その文才と時局を的確に見定める能力によって、高位に上りつめ生涯を終えた。漢の司馬相如、梁鴻を慕った。詩は幽深奇麗である。 | 従寇軍建平王登廬山香炉峰 望荊山 古別離 班u、詠扇 | ||||
劉太尉混傷乱 陶徴君潜田居 休上人怨別 效阮公詩 | |||||
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柳ツ りゅううん | 465-511 | ||||
字は文暢。河東郡解県の人。柳世隆の子。尺牘や碁に巧みで、琴の名手であった。斉の竟陵王蕭子良に認められて、法曹行参軍となり、太子洗馬・驃騎従事中郎・相国右司馬に上った。また梁に仕えて、長史・侍中・呉興太守・秘書監・左軍将軍などを歴任した。のちに呉興太守として赴任して、善政を布いた。詩作して、「登景陽楼」を武帝に奉じて賞讃を受けた。また沈約らと新たな韻律を定める上で貢献した。『清調論』。 | 江南曲 贈呉均 擣衣詩 | ||||
呉均 ごいん | 469-520 | ||||
字は叔庠、呉興故障(浙江省安古)の人。家は寒賤、呉均に至って好学俊才があり、沈約はすこぶるその文をほめた。 | 答柳ツ 酬別江主簿屯騎 | ||||
主人池前鶴 酬周参軍 春詠 山中雜詩 | |||||
劉峻 りゅうしゅん | 462-522 | ||||
学者。平原の人。字は孝標。父は南朝宋の始興内史。 泰始の初め、彼の郷里青州が北魏におちいったとき、彼は8才で人に捕われ、中山の富人劉実にあがなわれた。 彼はそこで書学を教えられたが、魏人はさらに彼を桑乾にうつし、南への逃亡を防いだ。しかしここでも彼は昼夜となく学業に励んだ。 斉の永明年間に桑乾を脱して南にかえったが、異書があると聞くと、必ず行って借覧したので、清河の崔慰祖はこれを書淫と称した。 梁代にはいり、安成王蕭秀は劉峻の学を好み、劉峻を荊州戸曹参軍とし、その書籍を給し、事類を抄録させ〈類苑〉という書を撰させた。 しかし劉峻はそれが完成しないうちに病気で職を去り、東陽の紫巌山に遊んだ。呉会の人士の多くは彼にしたがって学んだ。 彼は当時〈山栖志〉を著わしたが、文はたいへん美しかったという。南朝梁の武帝は文人を好み、高才ある者を順序なく起用した。 しかし、劉峻は心のままに行動する人であったので、武帝に嫌われ、任用を得なかった。 そこで、劉峻は〈辯命論〉を著わして、その心境をそこに寄せている。 |
自江州還入石頭詩 | ||||
徐誹 じょひ (徐敬業 じょけいぎょう) | 未詳-524 | ||||
(梁) 徐ひ?〔生年不詳-525〕字は敬業といい,東海?(現山東省?城)の人,徐勉の第二子。幼くして聰敏であり,文をよくした。劉孝綽の妹劉令嫺が、尚書僕射のとき嫁いだ。 | 古意酬到長史漑登瑯邪城 | ||||
劉孝綽 りゅうこうしゃく | 478-536 | ||||
劉孝綽の一族は、祖父の宋の司空劉?をはじめ、南朝において多くの高官を輩出した家柄であった。劉孝綽は7歳で文章を綴るなど、幼い頃から聡明で名高かった。舅の王融からは神童と呼ばれ、「私の死後はこの子が天下の文章を担うだろう」と言われていた。 | 古意 | ||||
曹景宗 そうけいそう | 457 - 508 | ||||
南朝の宋・斉・梁の武将。字は子震。新野(現河南省)の人。宋の征虜将軍・徐州刺史曹欣之の子。弟の曹義宗も梁の武将となる。 鍾離の戦いに勝利して都に帰還した際、武帝は宴を開き沈約に命じて詩会を催させたが、沈約は武人である曹景宗に詩は作れないと思い、彼に韻字を配らなかった。曹景宗は不満を示し、武帝が止めるのも聞かず、詩を作らせるよう強く求めた。沈約はやむなく彼にも韻字を配ったが、すでに「競」と「病」以外の字は配り終えてしまっていた。だが曹景宗は筆を振るってすぐさま詩を1首書き上げた詩が「光華殿侍宴賦競病韻」。 |
光華殿侍宴賦競病韻 | ||||
虞義 ぐぎ | 未詳?-510頃 | ||||
字は子光(子陽)といい、会稽餘姚(浙江省)の人。南史に才名があったとみえる。(梁) 虞義、字は子陽、会椿の余姚(浙江省)の人。七歳のときよく文を作り、ほなはだ才藻があった。南斉では始安王に引かれて侍郎となり、ついで、建安征虜府に仕えて、主簿功菅や記墓参軍事などを兼ねた。 | 詠霍将軍北伐 | ||||
衛敬瑜妻王氏 えいけいゆつまおうし | 未詳 | ||||
南梁-南北朝人。覇城の王整の姉、衛敬瑜の妻。歳十六で夫を失い、父母舅姑が皆再婚を進めたが聞き入れず、ついに耳を斬って盆に入れた誓った。雍州の刺史蕭藻は貞操を誉め讃えて、その門に表彰した。 |
孤燕詩 | ||||
陶弘景 とうこうけい | 456 - 536 | ||||
陶弘景(とう こうけい、孝建3年(456年) - 大同2年(536年))は、中国六朝時代の医学者・科学者であり、道教の茅山派の開祖。字は通明。隠居後は名を捨て華陽隠居と名乗り、晩年には華陽真逸と称した。眉目秀麗にして博学多才で詩や琴棋書画を嗜み、医薬・卜占・暦算・経学・地理学・博物学・文芸に精通した。山林に隠棲しフィールドワークを中心に本草学を研究し今日の漢方医学の骨子を築いた。また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた。 永元元年(499年)に三層の楼閣を建て、弟子の指導をするほか、天文・暦算・医薬・地理・博物など多様な研究に打ち込んだ。また仏教に深く傾倒している。王朝が交替すると梁の武帝は陶弘景の才知を頼り、元号の選定をはじめ吉凶や軍事などの重大な国政に彼の意見を取り入れた。このため武帝と頻繁に書簡を交わしたので「山中宰相」と人々に呼ばれるようになる。年を負う毎に名声が高まり王侯・貴族らの多くの名士が門弟となった。『文選』の編者として知られる昭明太子も教えを受けたひとりである。 道教の一派である上清派を継承し茅山派を開いた。著書『真誥』は上清派の歴史や教義を記述した重要な文献となっている。仙道の聖地である茅山に入り、弟子とともに道館「華陽館」を建て多くの門弟を育て優れた道士を輩出した。 |
詔問山中何所有賦詩以答 寒夜怨 | ||||
萸肩吾 ゆけんご | 487-550 | ||||
字子慎,一字慎之,南陽新野(今屬河南)人。太子蕭統に仕え、東宮講読に侍した。531年(中大通3年)4月、蕭統が早世する。7月に蕭綱が皇太子となると、?肩吾は東宮通事舎人に任じられた。に仕えて江州の刺史、義陽の太守に至り、武康県侯に封ぜられた。 |
奉和春夜應令 亂後行經呉御亭 詠長信宮中草 經陳思王墓 | ||||
101 | ?邵(けいしょう) | 496〜561 | |||
北朝斉文学家。字は子才。河?□(今の河北任丘北)人。 | 思公子(綺羅日減帶) | ||||
103 | 鍾エ(しょうえい) | 469〜518 | |||
字は仲偉。潁川郡長社の人。斉の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となった。梁に入って、晋安王・蕭綱の記室をつとめた。漢魏以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。 | 『詩品』 | ||||
104 | @蕭衍 (しょうえん) 梁武帝 りょうぶてい | 464〜502〜549 | |||
南朝梁の初代皇帝。蕭衍(しょうえん)南蘭陵(江蘇省)の蕭氏の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。父の順之は南斉の高帝蕭道成の族弟であり、丹陽の尹であった。若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であった竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。 | 河中之水歌 遊女曲 子夜歌 逸民 西州曲 擬河畔草 東飛伯労歌 天安寺疏圃堂 籍田 | ||||
105 | E范雲 はんうん | 451年- 503 | |||
(梁)南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭?と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。 | 別詩 「贈張徐州稷」 「古意贈王中書」 有所思 送沈記室夜別 之零陵郡次新亭 | ||||
邱遅 きゅうち | 464-508 | ||||
字は希範、呉興烏程(浙江省呉興縣)の人。永嘉太守。司空従事中郎を拝した。 | 侍宴樂遊苑送張徐州應詔 旦發漁浦潭 | ||||
106 | 何遜(かそん) | 未詳〜518 | |||
何 遜(か そん、467年? -518年?)は中国南北朝時代の文学者。東海?の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝?とならび、唐詩の先駆とみなされている。 | 日夕望江山贈魚司馬 道中贈桓司馬季珪 入西塞示南府同僚 贈諸游舊 送韋司馬別 別沈助教 與蘇九徳別 宿南洲浦 相送 | ||||
和蕭諮議岑離閨怨 臨行與故游夜別 與故游夜別 慈姥磯 | |||||
107 | 王籍 おうせき | 502〜519 | |||
南梁(502〜557)(おうせき 502〜519) 南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽」対句はあまりに有名です。 | 入若耶渓 | ||||
108 | G陸?(りくすい) | ||||
簡文帝 かんぶてい | 503-551 | ||||
南朝梁の第2代皇帝。晋安王に封ぜられていたが、兄である蕭統(昭明太子)の死により皇太子に立てられる。侯景の乱により建康が陥落した後、ほとんど餓死させられた武帝に代わり、549年に侯景により皇帝に即けられる。その短い治世の間には百済からの使者を受けたりしたが、政治の実権は完全に侯景に握られており、単なる傀儡に過ぎなかった。簡文帝は兄の昭明太子同様文才に優れており、6歳の時、父の武帝の前でみごとな文章を書いてみせ、「この子はわが家の東阿である」と武帝から称賛された。 | 折楊柳臨高臺 納涼 | ||||
元帝 げんてい | 508-554 | ||||
元帝 (南朝梁)508-554年 名は繹、字は世誠。武帝(蕭衍)の第7子として出生する。湘東王に封じられ、547年、鎮西将軍・都督・荊州刺史となる。 元帝は中国の歴代皇帝の中でも学問を愛した皇帝であった。幼少時に病気で片目を失明したが、書物を好み、自ら多くの著作を残し、蔵書は10数万巻に及んだという。 |
折楊柳 詠陽雲樓簷柳 | ||||
109 | D蕭鎮(しょうちん) | ||||
112 | 徐 陵(じょりょう) | 507年- 583年 | |||
中国南北朝時代、梁・陳の文学者・政治家。字は孝穆。本籍地は東海郡?県(現山東省)。梁では父親の徐?、?肩吾・?信父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐?体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の乱の混乱により、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の文宗」と称えられた。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑作として名高い。 | 『玉台新詠』 | ||||
五胡十六国 304-439 |
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南北朝 439-589 |
北魏 439-589 |
北魏 |
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西魏 535-556 |
東魏 534 - 550 |
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北周 556-581 |
北斉 550-577 |
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北斎 550-577 北斉 北朝の王朝の一つ。550年に鮮卑族の高氏が東魂から政権を奪って樹立、三十年足らず後の577年に北 周によって滅ぼされた。事実上の最後の帝、後主高緯は政治に関心も能力もなく、歌舞音曲を愛した。みず から「無愁の曲」を作って合唱させたので「無愁天子」(脳天気の君)と称された(『北斉書』後主紀)。 |
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馮淑妃(左皇后) ふうしゅくひ | 未詳 | |
名は小憐、馮淑妃(左皇后)小憐 北斉の後主高給が寵愛した馮淑妃の名。燐は同音の蓮とも書かれる。もとは穆皇后の侍女であったが、聡明で琵琶、歌舞に巧みなのが気に入られて穆皇后への寵愛がおとろえ、後宮に入った。その寵愛ぶりを『北史』后妃伝の馮淑妃の伝は「後主 之に惑い、坐すれば則ち席を同じくし、出ずれば則ち馬を並べ、生死一処を得んことを願う」と記す。 北斉二首其一 李商隠「小憐玉體横陳夜、己報周師人晋陽。」 |
感琵琶絃 | |
102 | 斛律金(こくりつきん) | |
中国の東魏・北斉の軍人。騎射を得意とし、用兵は匈奴の法を学び、塵を見て敵軍の数を知り、地を嗅いで敵軍の遠近を知ったと言われる。 | 勅勒歌 | |
北周 ほくしゅう556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国。国号は単に周であるが、紀元前11世紀に武王が建てた周を始めとする同名の王朝と区別するために北周と呼ぶ。 | ||
110 | 萸信 ゆしん | 513年-581年 |
は、中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。?肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をはじめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。 | 商調曲 烏夜啼 對酒歌 奉和泛江 同盧記室従軍 |
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至老子廟應詔 擬詠懐 喜晴應詔勅自疏韻 和王少保遙傷周處士 奉和永豊殿下言志 詠畫屏風詩 梅花 和侃法師 重別周尚書 寄王琳 秋夜望単飛雁 | ||
111 | 王褒(おうほう) | 513〜576 |
琅邪郡臨沂の出身。字は子淵。梁の武帝に仕えて清官を歴任し、蕭子雲に草書・隷書を学んで師と共に令名があり、顧野王とも二絶と併称され、元帝が即位すると 吏部尚書・右僕射に進んだ。 | 關山篇 渡河北 | |
五胡十六国 304-439 |
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南北朝 439-589 |
北魏 439-589 |
北魏 |
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西魏 535-556 |
東魏 534 - 550 |
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北周 556-581 |
北斉 550-577 |
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陳(ちん、557年 - 589年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の王朝。 | ||
113 | 陰鏗 いんこう | 510頃-570 |
南朝、陳の文學者。字は子堅という。武威姑臧(現甘肅省武威)の人。 はじめ梁の湘東王の法曹参軍となった。陳の天嘉年間に、始興王の中録事参軍となり、のちに晋陵太守・員外散騎常侍に上った。詩人として何遜と並び称された。『陰常侍詩集』。史伝に通じ、詩は当時の第一であった。杜甫「解悶」、「與李十二白同尋範十隱居」に引く。字は子堅。武威郡姑臧の人。 |
渡清草湖 廣陵岸送北使詩 江津送劉光祿不及詩 和傅郎歳暮還湘洲詩 開善寺詩 | |
徐陵 じょりょう | 507-582 | |
南朝梁,陳の文人貴族。字は孝穆(こうぼく)。梁代から文名がたかく,548年には梁朝の使節として東魏を訪問したが,江南に侯景の乱が勃発し,555年の帰国まで辛酸をなめた。陳代に尚書僕射に栄進。梁の簡文帝の皇太子時代,その東宮に父の徐?(じよち),および萸肩吾・萸信父子とともに奉職したころの軽艶の詩文は,〈宮体〉(宮体詩)とか〈徐?体〉とかよばれて世にむかえられた。また《玉台新詠》の編者である。 | 出自薊北門行 別毛永嘉 關山月 | |
周弘正 しゅうこうせい | 495-574 | |
字は思行。汝南安成(現河南省汝南縣東南)の人。梁、太學博士として仕える、國子博士、?門侍郎、太常卿、都官尚書となる。陳で禪を受ける。授太子・事、侍中に遷り、國子祭酒をへて尚書右仆射に進む。574年太建六年卒。享年七十九。 | 還草堂尋處士弟 | |
周弘譲 しゅうこうじょう | 未詳 | |
周弘正の弟。茅山(江蘇省句容)に隠棲して梁の招聘に応じなかったものの侯景には仕え、王褒との親交から元帝の遥授を受けて陳でも無位無冠のまま太常卿・光禄大夫として遇された。 | 留贈山中隠士 | |
江總 こうそう | 518-590 | |
519-594。字を總持と言い、濟陽郡は考城縣の人である。西晉の散騎常侍であった江統の十世孫に当たる。五世祖の江湛は、劉宋の左光祿大夫、開府儀同三司で、謚号を忠簡公とされている。祖父の江は、梁の光祿大夫で、当代にあって名を知られた。父の江は、南徐州迎主簿に任命されたが、若くして父を亡くすと、そのまま毀卒してしまった。 | 遇長安使寄裴尚書 入摂山棲霞寺 南還尋草市宅 へい州羊腸坂 | |
閨怨篇 哭魯廣達詩 於長安歸還揚州九月九日行薇山亭賦韻詩 | ||
張正見 ちょうせいけん | 569-582 | |
49歳で没す。字は見嘖。山東省清河東武城の人。13才のとき、まだ皇太子であった梁の簡文帝の頌をたてまつり、文才を賞賛された。梁の元帝のとき、彭沢令となり、のち陳に仕えて尚書度支郎、通直散騎侍郎に昇進した。彼は五言詩にすぐれ、世にもてはやされた。新体詩(律詩)形成への寄与はみのがせない。太建(569〜583)年間49才で没した。 〈陳尚書度支郎張正見集〉14巻があった。 |
關山月 秋日別萸正員 | |
何胥 かしょ | 生没年未詳 | |
陳の後主の時に常令となった。後主は常に宮中の女学士および朝臣と相和して詩を作り、何胥に命じて管弦に被らせて、新曲とした。 | 被使出関 | |
五胡十六国 304-439 |
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南北朝 439-589 |
北魏 439-589 |
北魏 |
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西魏 535-556 |
東魏 534 - 550 |
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北周 556-581 |
北斉 550-577 |
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ID |
詩人名 / 事項 よみかな | 生没年/作品名 | |
盧思道 ろしどう | 531-582 | ||
字は子行、范陽の人。才学あり、斉の文宣帝に仕え、給事黄門侍郎に至り、周に入り、後隋の散騎常侍となって歿した。 | 遊梁城 | ||
煬帝 いんけん | 580-618 | ||
569-618 隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。煬帝は唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君といわれる[2]。 煬帝は暴君として描写され、その業績は否定的に評価される傾向にある。大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗って行幸したために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に評されることになる。 しかし大運河の建設は長期間分裂していた中国を統一するための大事業でもあった。 煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。治世後半には自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。 |
飲馬長城窟行示従 征羣臣 白馬篇 野望 春江花月夜 |
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114 | 楊 素 よう そ | ? - 606 | |
中国の隋の政治家・軍人。隋の上柱国、司徒、楚景武公に上った。字は処道(正字は處道)。弘農郡華陰県(陝西省渭南市)の出身である。隋の帝室である楊氏(鮮卑普六茹部)とは別系統にあたる。 楊素は、楊敷の子として生まれた。楊敷は、北周の天和年間に汾州刺史となり、北斉の将軍の段韶の攻撃を受けて捕らえられた。北斉は楊敷を任用しようとしたが、楊敷は屈することなく?で没した。 |
山齋獨坐贈薛内史 贈薛播州 |
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115 | 薛道衡 せつどうこう | 540年- 609年 | |
南北朝時代および隋の文学者。北朝および隋を代表する文学者で「一代の文宗」と称えられたが、煬帝にその文才をねたまれ処刑された。 | 昔昔塩 敬酬楊僕射山齊獨坐 人日思歸 | ||
科挙を施行 |
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116 | 観徳王・楊雄 ようゆう | 542年- 612年 | |
楊雄(よう ゆう、)は、中国の隋の皇族。観徳王。もとの名は恵。文帝楊堅の族子にあたる。 | |||
虞世基 ぐせいき | ?-618 | ||
中国陳および隋の政治家。字は茂世。会稽餘姚(現浙江省)の人。「初唐の三大家」の一人、虞世南の兄。隋の煬帝に重臣として仕えたが、後に宇文化及の反乱で殺された。 | 出塞 入関 | ||
遜萬壽 そんばんじゅ | 未詳 | ||
字は仙期、武邑武遂(河北省)の人。北斎に仕え、後隋の文帝の時滕の穆王の文学となった。 | 和周記室遊舊京 早發揚州還望郷邑 東歸在路卒爾成咏 | ||
王冑 おうちゅう | 未詳 | ||
王冑(おう ちゅう、558年 - 613年)は、南朝陳から隋にかけての詩人。字は承基。本貫は琅邪郡臨沂県。王冑は才能を恃んで傲慢であり、官位が低いことに不満を漏らしていた。諸葛潁に憎まれてたびたび誣告されたが、煬帝は王冑の才能を愛して罰しようとしなかった。礼部尚書の楊玄感とつきあいがあり、たびたびその邸に遊んだ。613年(大業9年)、楊玄感が反乱を起こして敗れると、王冑は虞綽とともに辺境に流された。配流地から逃亡して、江南に潜伏していたが、官吏に捕縛されて処刑された。享年は56。王冑の著した詞や賦は、多くが当時に流行した。 | 別周記室 | ||
尹式 いんしょく | 未詳 | ||
隋の文帝の仁寿年間(601年 - 604年)に漢王記室の官に就く。漢王が敗れて尹式も自殺した。 | 別宋常侍 | ||
孔徳紹 | 生没年未詳 | ||
送祭君知入蜀 夜宿荒村 |
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孔紹安 こうしょうあん | 577-622 | ||
字は不詳であり,越州山陰(今浙江紹興)の人,孔奐之子。約四十六?。孔免の長子,孔子三十三代孫。隋の末,監察御史と為り。唐になり,?史舍人に拜せられた。恩禮甚だ厚く,撰梁史に詔せられた。有文集五十卷,今存詩七首。 | 落葉 別徐永元秀才 |
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陳子良 ちんしりょう | |||
初唐詩人 167 | |||