h北宋の詩人 |
唐 618年 - 690年・705年 - 907年 |
|||
宋 960 - 1127 |
遼 983-1066 |
西夏1032-1227 |
|
金1115-1234 |
|||
ID |
詩人名 よみかな / 概略・事項 | 生没年/作品 | |
王禹しょう おううしょう (王元之 おうげんし) | 954−1001 | ||
字は元之。済州鉅野(山東省)の人。生まれたのは宋の建国前六年。九歳のころから文章にたくみで、太宗の太平興国八年に進士に及第、羅処約らと詩の酬和をして、詩人として名を知られた。成武(山東省)の主簿をふりだしに、蘇州長洲県(江蘇省)の知をへて、右拾遺となり史館に直し、左司諌・知制譜に進んだが、應州(安徽省)の妖尼遣安なるものが、徐鉱を訴えたのを怒り、遣安の罪を糾弾すべしと主張したことから、かえって外に出されて、商州(駅西省)の団練副使となり、解州(山西省)に量移された。しかしふたたび都に招かれて左正吉となって弘文館に直し、一時単州に出、ついで礼部員外郎・知御許に再任され翰林学士となったが、今度は人をそしったというので、工部郎中をもって漑州(安徽省)に出され、揚州(江蘇省)に移された。真宗の即位とともに三たび都に招かれてまたも知制語となり、「太宗実録」の編修にたずさわったが、直書して宰相と衝突し、またまた追われて黄州(湖北省)の知に出された。そこで「王黄州」ともよばれる。のち釿州(湖北省)に移され、まもなく四十八歳をもってその地で没した。時に真宗の咸平四年。 | 村行 春日雜興 酬種放征君一百韻 寄題陝府南溪兼簡孫何兄弟 七夕 日長簡中咸 寄潘処士 |
||
魏野 ぎや (魏仲先 ぎちゅうせん) | 960-1019 | ||
字は仲先。もと蜀(四川省) の人であったが、陝州(河南省)に移り住み、聞達を求めず、東郊の自然を愛して、そのあたりを楽天洞と名づけ、草堂を築いて、草堂居士と号し、「草堂集」を著わした。真宗の大中祥符の初め、遼の使者が来朝したとき、「わが国では、草堂某の上帙は手に入れているが、下秩がぜひ欲しい」と申し出たので、詔にょってそれが遼国に贈られたという話がある。そんなわけでこれも隠士の李?といっしょに、朝廷に出仕するように推薦されたが、魏野は「願はくぼ?畝を守り、永く帝力を荷はん」と上書してことわったので、真宗は県の役人にだいじに絶えず世話をするようにと特に命じた。こうして一生を布衣でおくり、真宗天ニ三午、六十歳で、没した。死後、秘書省著作郡の位階が贈られた。 その詩は、いわゆる晩唐体で、賈島を学び、その生き方と同じように超俗の気韻にあふれたものであった。死後は林逋(和靖)ほどには喧伝されなかったけれども、生存中の評判は林適よりもはるかに上であった。 「草堂集」は、そのままの形では伝わらず、没後編纂された「鉅鹿東観集」十巻が今日に伝わっている。 |
書三門羽化院琳師房 登原州城呈張貴従事 書逸人兪大中屋壁 | ||
李涜 りとく (李長源 りちょうげん) | 未詳 | ||
李涜 りとく (李長源 りちょうげん) 李瑩の子。あざなは長源。淳淡好古、博学であったが仕官を求めず、書画の聚集と酒を愛し、中条山に往来して、幽跡のところに仮住居していた。真宗の招きに、足が悪いといって応ぜず、「代代儒墨の家で、世を避けて静かに修養につとめたい」と答えた。死期を知ると、父の集七十篇と書画を子供たちにわたし、酒をのんで死んだ。 |
水調歌頭 | ||
楊億 ようおく (楊大年 ようたいねん) | 974-1020 | ||
字は大年。建州滴城(福建省)の人。太祖の開宝七年に生まれた。七歳で文を書き、十一歳で文名が郡に伝わり、太宗は招いて詩賦を作らせ、秘書省正字を授け、のちに進士及第の資格を与え、光緑寺丞にすすめた。太宗の没後、銭若水に詔が下って「太宗実録」を編修せしめられたとき、若水は億を推薦し、八十巻の実録のうち五十六巻は億が独りで起草した。真宗の世になる之、二部侍郡にすすみ、簡体字±となり、詔をぅけて御実の匹釈を書き、史程の熔摂を兼ねた。天ニ七年、 四十七歳をもって没し、文とおくりなされた。 名節をたっとび、後進を導き、典章制度に通じ、その文は雄健、かつて王欽若らと、勅を奉じて「冊府元亀」一千巻を編纂した。詩文集に、「括蒼」・「武夷新集」・「頴陰」・「韓城」・「退居」・「汝陽」・「蓬山」・「冠鰲」などの諸集あわせて一九四巻の著があったが、今は 「武夷新集」 二〇巻のみが伝わっている。その真宗の景徳中に史館にあって、銭惟演・劉?らと酬唱した五七言律詩二百四十七章を「西崑酬唱集」と名づけたので、彼を中心にした宮廷詩人のグループの詩風を「西昆体」とよび、一世を風靡した。 |
漢武 | ||
劉均 りゅういん (劉子儀 りゅうしぎ) | 971-1031 | ||
字は子儀。大名(河北省)の人。生卒年不明。真宗の大中群符の末ごろ在世。進士にあげられ、館陶県の尉をしていたが、楊億に才をみとめられて、大理評事をもって秘閣の校理となり、「図経」および「冊府元亀」の編修に加わり、左正言に進み、史館に直し、「起居注」の筆をとり、累遷して翰林学士となった。かつて宰相の丁謂をやめさせる詔の起草を命じられて書いたが、俄かにまたそのまま相位にとどめられることになって、その詔の起草をさらに命じられると、それをこばんで、地方へ出ることを希望し、廬州(江西省)の知となった。その後召されて翰林学士承旨となったが、ふたたび廬州に出て、その地で没した。文章は、対偶をこのみ、もっとも詩に工みで、李商隠・唐彦謙をたっとび、いわゆる西崑派の磨きのかかった詩を作り、「楊劉」と並称された。 | 舘中新蝉 | ||
寇準 こうじゅん (寇平仲 こうへいちゅう) | 961-1023 | ||
あざなは平仲。華州下?(陝西省)の人。太祖の建隆二年に生まれ、仁宗の天聖元年(即位の第一年)に六十三歳で没した。 若くして英邁、「春秋」三伝に通じ、十九歳で進士に及第。大理評事、成安(河南省)県の知をふり出しに枢密院直学士に至る。殿中で上奏中、帝が怒って座を起とうとすると、御衣をつかんで座にもどしたこともあり、太宗は、唐の魏徴に此したという。真宗の景徳元年、同中書門下平章事(宰相)となったが、たまたま遼草の侵入があると、動揺する衆議を圧えて、帝の親征を求め、?州の大勝を博した。王欽若の謀略にかかり宰相をやめたが、天ニの初め、ふたたび宰相に復活し、莱国公に封ぜられた。しかし今度は丁謂の構えるところとなり、雷州(広東省)の司戸参軍に流され、衡州(湖南省)の司馬に移り、その地で没くなった。仁宗のとき、忠愍とおくりなされた。 |
夏日 春日登樓懐歸 |
||
601 | 林逋 (りんぽ) | 967年 - 1028年 | |
宋代の詩人。字は君復。 杭州銭塘(浙江省)の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない | 自作詩壽堂困書一絶以志之 秋江寫望 山園小梅 梅花 | ||
藩ろう〔門+良〕 はんろう | 未詳 | ||
あざなは、わからない。逍遥子と号した。大名(河北省)の人。かつて洛陽(河南省)で売薬を業としていたが、太宗のとき(976-997)王継恩の推薦にょって、召されて試験をうけ、進士及第の資格を与えられた。しかし狂妄なところがあるというので、その詔書(特別資格証明書)を取りあげられ、その後法にふれる点があって亡命し、真宗のとき(998-1022)捕えられ、罪を許されて、徐州(安徽省)の参軍(軍記)になったが、また法にふれて、ついに泗水(江蘇省北部)のほとりで没くなった。生卒、享年すべて不明。 宋初の晩唐派詩人の一人として、冠準・王裔侶・林逋・柳開らと親しく交わり、名は高く、後に蘇軾は、「曼卿(石延年)子美(蘇舜欽)の下に在らず」といい、劉敗は「劉長卿に減ぜす」とまで褒めあげている。 「逍遥集」一巻がある。 |
宿靈隠寺 | ||
602 | 蘇舜欽(そ しゅんきん) | 1008- 1048 | |
蘇舜欽(そ しゅんきん、1008年 -1048年)は北宋時代の政治家・文学者。字は子美。銅山(河北省)の出身。参知政事であった蘇易簡の孫でもある。若い頃から世を慷慨し、軍事論を好み大志があった。初めは父の推挙により太廟齋郎に任命され、景祐年間(1034年- 1038年)に進士に合格し、知長垣県をへて大理評事となった。康定年間(1040年 -1041年)、河東に地震があったときに蘇舜欽は上疏し当時の政治の欠陥を論じて范仲淹に認められ、集賢校理となり進奏院を監督し、時の宰相・杜衍の娘を娶るまでになった。多くの学者が修飾の多い美文を書いていた中で、河南の穆修とともに古体による詩を書き、欧陽修の賞賛を得た。草書にも優れていたという。 | 初リ遊蒼浪亭 秋宿虎丘寺数夕執中以詩?困次元韻 迭李生 中秋夜呉江亭上對月懐前宰張子野及寄君謨蔡大 | ||
范仲淹 はんちゅうえん (范希文 はんきぶん) | 989―1052 | ||
字は希文。蘇州呉県(江蘇省)の人。二歳で父を亡い、母は再嫁。生長して母と別れ、親戚の家に寄寓して、刻苦勉励。大中祥符の進士となり、晏殊に認められて、秘閣校理となる。つねに感激して天下の事を論じ奮って身を顧みず、その後の士大夫の気節を尚ぶ風気は、彼によって始まるといわれている。仁宗の朝に、支部員外郎をもって開封府の権知となったが、呂夷簡にさからってやめ、饒州(江蘇省)の知となった。西北で元昊の叛乱が起こると、竜図閣直学士に抜擢せられて夏竦の副として陝西の経略に従事すること数年、号令は厳明、士卒を愛撫したので、羌人は彼を「竜図老子」と呼び、また西夏の国人も「小指老子の胸中には、おのずから数万の甲兵あり」といって、侵入しないように戒めたという。やがて枢密副使から参知政事に進み、内外からその政事に期待を抱かれたが、堕落した官吏をきびしく取締まったため、訝みきらう者があらわれ、河東陝西の宣撫使に出された。その後戸部侍郎にもどり、青州(山東省)の知に出たが、病気を以て薪州(安徽省)への転任を希望し、その地に行き着かぬうちに没した。時に六十四歳、仁宗の皇祐四年で、文正とおくりなされた。 著に、「花文正公集」二十巻、別集四巻、尺腰五巻のほか、政府奏議などがある。本葉には、詩賦二六八首、雑文一六五篇を収めている。 北宋一代の清廉剛直の政事家で、詩人としての名は、それにおおわれているが、その詩は国士としての気概に富み、治乱に関するものが多い。文章では、「岳陽楼の記」が名文として人口に膾炙している。 |
贈釣者 漁家傲?秋思 蘇幕遮 漁家傲 |
||
603 | 柳永 | 987〜1053 | |
崇安(福建)出身。字は耆卿、原名は三変。景祐元年(1034)の進士で、屯田員外郎となった。詞の作者として当時から著名で、艶詞が多く鄙俗と評されるが、叙情に優れ、従来の短篇詞主体に対して長篇詞を好み、詞史に新生面を与えた。 | 八聲甘州 | ||
604 | 晏殊 | 991〜1055 | |
字は同叔。撫州臨川(江酉省)の人。太宗の淳化二年に生まれ、神童をもって推薦され、真宗みずから試験して、進士出身の資格を与え、秘書省正字に抜擢し、史館に直させた。仁宗の世になると、右諌議大夫から給事中となり、「真宗実録」の編修に加わり、さらに更部侍郎、枢密副使をへて、同中書門下平章事となり、枢密使を兼ねた。仁宗の至和二年、六十五歳で没し、元献とおくり一なされた。 全くとんとん拍子に中央政治街道を出世また出世、ついには宰相にまでなった人物であるが、人柄は剛直、身を持すること清倹、しかも賢を好み、後進を誘掖し、宋庠・宋祁の兄弟、花仲掩・欧陽修など、みなその門から出た。すぐれた人物であったといってよかろう。 ところがその作品の万は、その剛直清倹とことなり、文章は「瞻麗」といわれ、そのもっとも得意とした詩・詞は、「情をもって勝る」といわれている。詩は、「西崑派」詩人として最後の光輝を放っている。二宋(宋庠・宋祁)も西尾の流れを汲む詩人であるが、これは餘波というべきであろう。 詩文集およそ二百四十巻があったというが(「宋史」本伝)、今に存するものは、わずかに「晏元献公遺文」一巻および「珠玉詞」一巻で、「類要」一百巻は別種の著述である。 |
寓意 蝶戀花 浣溪沙 破陣子 采桑子 |
||
梅堯臣 ばいぎょうしん (梅聖兪 ばいせいゆ) | 1002 ―1060 | ||
字は聖兪。宣州宣城(安徽省)の人。真宗の咸平五年に生まれ、父(梅詢)の蔭をもって大願の斎郎となり、河南の主簿を振りだしに、県令・監税・筌書をへて、鎮安(陝西省)の判官と、地方の職を転々としていたが、詩名ははやくより聞こえ、河南にいたとき王晦叔は彼の詩を見て、「二百年この作なし」と激賞した。銭惟演に愛され、仁宗の朝に入って、進士出身の資格を与えられたが、別にそれで報いられるところもなかった。ついで学士の趙概ら十餘人が連署して推薦したので、はじめて国子監直講となり、やっと中央の官僚となれた。そして最後は、尚書屯田都官員外郎で終わり、仁宗の嘉祐五年、五十九歳で没している。 その著には、「宛陵集」六十巻附一巻(「宋史」の本伝は四十巻という)のほか、「毛詩小伝」二十巻および「唐載記」二十六巻がある。「唐書」の編纂にも加わったが、その完成を見ないうちに没している。 一生を通じて官歴は決して恵まれなかったが、その詩名は高く、司馬光・蘇軾・王安石らの名士とも交わって尊敬をうけ、もっとも欧陽修から敬愛された。その初期の詩は、清淡な趣を主として詠じ、「もっぱら葦蘇州(唐の自然詩人)に学ぶ」といわれたが、欧陽修と詩交が増すとともに、その影響をうけて韓愈(退之)の詩格を学ぶようになり、「古健奇秀」といった味を出すようになった。欧は、かつて彼を孟郊に比し、「郊死して、聖愈その蔵を発く」といい、また「近ごろの詩は、もっとも古硬」と評している。そこで「宋詩鈔」も、「初めは清麗・閑肆・平淡をなすを喜びしが、久しうして則ち涵演深遠、まま また琢剥以って怪巧を出す」に至ったという。蘇舜欽と並んで、世に蘇梅といわれ、欧陽修の羽翼として、宋詩に新しい道を開拓した功は、高く評価され、元の?嘯は、「浮靡の習を、崑体極弊の際に去り、古淡の道を諸大家の未だ起らざるの先に存す」といい、劉克荘は、「聖露出でてより、然る後、桑濮の淫哇やや息み、風雅の気脈また続く」といい、葉變は、「宋詩一代の面目を開くものは、梅尭臣・蘇子美より始まる」と、口を揃えてその宋詩のいわば開山祖師であることを強調している。 |
雑詩 魯山山行 小村 范饒州坐中客語食河豚魚 傷白鷄 河南張應之東斎 | ||
609 | 蘇洵 (そじゅん) C | 1009〜1066 | |
眉州眉山(四川)の出身。字は明允、号は老泉。晩学で科挙には失敗したが、読書に励んで論文を著し、欧陽脩に認められて諸文士と交流した。議論文を得意とし、『太常因革礼』編纂に参加し、完成直後に歿した。唐宋八大家の1人。 | |||
605 | 欧陽脩 (おうようしゅう) B | 1007〜1072 | |
廬陵(江西)出身。字は永叔、諡号は文忠。苦学して進士に第一甲で及第し、1043年に知諫院とされ、この時に『朋党論』を著した。以後、同修起居注・知制誥と累進したが、杜衍・韓g・范仲淹・富弼らの左遷を極諫した為に地方に出され、12年後に翰林学士に復した。1060年に地方官から枢密副使に復して参知政事に進み、濮議では台諫側の司馬光らと対立した。 史学に通じ、神宗期に新法に反対して致仕を許されると潁州に隠棲し、六一居士と称して『新唐書』『新五代史』を著した。周・漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して金石学の祖とされ、又た韓愈の文章を高く評価して古文復興にも尽くした。唐宋八大家の1人とされる。 |
日本刀歌 ;蝶戀花 |
||
606 | 曾鞏 そうきょう F | 1019〜1083 | |
建昌南豊(江西)の出身。字は子固、号は南豊先生。太学時代に欧陽脩に認められ、嘉祐2年(1057)に進士に及第すると実録編纂官などを務めた後、地方官を歴任した。王安石と親交があったが、新法実施には反対し、1082年に中書舎人となった。唐宋八大家の1人。 | 虞美人草 西樓 | ||
607 | 司馬光 しばこう | 1019〜1086 | |
陝州夏県(山西)の出身。字は君実。宝元元年(1038)の進士で、濮議では名分を重んじて皇伯論を主張した。神宗が即位すると翰林学士・御史中丞となったが、新法に反対して地方に転出し、後に勅命で『資治通鑑』を編集した。哲宗が即位すると皇太后の庇護を得て尚書左僕射に復し、すべての新法を廃して社会を混乱させた末、在任8ヶ月で病死して温国公を追贈された。後に元佑党人として官位を剥奪され、北宋末に名誉が回復された。 | 居洛初夏作 客中初夏 |
||
608 | 王安石 G | 1021〜1086 | |
撫州臨江(江西)の出身。字は介甫、号は半山。慶暦2年(1042)の進士。主に地方官を歴任して治績を挙げ、いちじ中央に召されて仁宗に“万言書”を上呈したが、狷介さを忌まれて用いられなかった。神宗が即位すると知江寧府とされ、治績を認められて翰林学士をへて1069年に参知政事とされ、制置三司条令司を新設し、新法を逐次実施して翌年には同平章事とされた。 新法は主に中・下級の農民や商人を庇護して経済力の再建を図るもので、財政・治安に実績を挙げたが、国制を根本から再編する政策であったため、既得権を侵された地主・豪 |
梅花 北山 書湖陰先生壁 泊船瓜洲 鍾山即事 夏日即事 桂枝香 |
||
610 | 富弼(ふひつ) | 未詳〜1083 | |
馬存 | |||
秦觀 しんかん | 1049年 -1100年 | ||
陳師道ちん しどう1053年1102年 | |||
611 | 蘇軾(蘇東坡) D | 1036〜1101 | |
眉州眉山の出身。字は子膽、号は東坡。蘇洵の子、蘇轍の兄。嘉祐2年(1057)の進士。夙に将来を嘱望され、英宗期に判登聞鼓院、直史館とされたが、神宗期に新法に猛反対して杭州通判など地方官を歴任し、1079年には詩文中で時政を誹謗したとして黄州に配流された。元佑年間には翰林学士・侍読とされ、募役法の廃止に反対して知杭州に転出し、1092年に礼部尚書に復したが、紹聖以降は恵州ついで瓊州(海南島)に流され、常州で客死した。 文人としても著名で、父・弟とともに“三蘇”と称され、“大蘇”とも呼ばれた。線の太い詩は宋代文学の最高峰とされ、『赤壁賦』は黄州配流時に創られた傑作。唐宋八大家の1人。 |
念奴嬌 江城子 春夜 澄邁驛通潮閣二首 飮湖上初晴後雨 六月二十七日望湖樓醉書 和陶飮酒 題西林壁 江城子 浣溪沙 水調歌頭 | ||
陳師道 ちん しどう | 1053-1102 | ||
黄庭堅 こうていけん | 1045― 1105 | ||
字は魯直(ろちょく)、号は山谷道人(さんこくどうじん)、?翁(ふうおう)などがある。黄山谷と呼ばれることが多い。宋代の詩人においては蘇軾・陸游と並び称され、書家としては蘇軾、米?、蔡襄とともに宋の四大家に数えられる。「詩書画三絶」と讃えられ、師の蘇軾と名声を等しくして蘇黄と呼ばれた。子孫に清代の詩人、黄景仁がいる。 治平3年(1066年)に23歳で進士に及第した。黄庭堅は王安石の新法派と意見を対立させたため、河南・北京・江西・山東などの地方に赴任させられている。元豊8年(1085年)に新法派を支えた神宗が没すると旧法派が権力を奪取し、黄は首都?京にて校書郎、著作左郎、起居舎人など中央官僚として活躍した。34歳のころ蘇軾と知り合い、張耒(ちょうらい)、晁補之(ちょうほし)、秦観とともに蘇軾門下となり蘇門四学士と称された。?京ではこの他にも多くの文人達と交友した。 しかし、紹聖元年(1094年)以降、新法派が再度実権を握ると黄は左遷され、四川省の?州(ふしゅう)・黔州(けんしゅう)・戎州(じゅうしゅう)に貶謫されてしまう。崇寧2年(1103年)讒言を受けて宜州(現在の広西チワン族自治区)へ流刑となりその地で病没した。享年61。南宋の度宗のとき名誉が回復され文節の諡号が贈られた。 地方への赴任は、自然を愛でて詩書画に耽溺する時間が許され、必ずしも不幸であったとはいえない。また仏門に帰依し老荘思想に傾倒するような自由な精神活動が行えた。むしろ黄庭堅の革新的な芸術を開花させるに理想的な環境であったといえる。 また親孝行でも有名であったらしく、二十四孝の一人として知られている。 |
荊江亭即事 雨中登岳陽樓望君山 寄黄幾復 登快閣 題竹石牧牛 |
||
612 | 蘇轍 E | 1039〜1112 | |
字は子由、号は潁浜。蘇軾の弟。嘉祐2年(1057)の進士。新法の実施時には三司条令司の書記とされたが、青苗法に反対して河南推官に遷され、蘇軾に連坐して南方に流された。元佑年間に右司諫から吏部尚書、門下侍郎と進んで新法派を排斥したが、紹聖以降は広南に左遷され、後に河南許州に隠棲した。兄に劣らぬ直言家だったが、旧法派の主流とは距離を措いて部分的に新法を認め、役法・西夏対策などにも見識を有した。文人としても兄と並んで知られ、“小蘇”と呼ばれた。唐宋八大家の1人。 | 李公麟山荘図 | ||
613 | 宋江 | 生没年不詳 | |
宋 江(そう こう、SòngJi?ng、生没年不詳)は、北宋末の1121年に現在の山東省近辺で反乱を起こした人物。また、その反乱事件に取材した小説で中国の四大奇書の一つである『水滸伝』では主人公となっている。 | 西江月 | ||
614 | 李師師 | 生没年不詳 | |
615 | 孫覿(そんてき) | 1081〜1169年 | |
北宋時代(960〜1127)に活躍。幼くして蘇軾に才能を見出されたといわれる。 | 再宿楓橋 | ||
616 | 張元幹 | 1091〜不明 | |
両宋期の豪放な作風の詞人(1091年〜不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退けられる。 | 石州慢 |