同谷紀行 |
發秦州
*〔原注〕 乾元二年自秦州赴岡谷縣紀行。
我衰更瀬拙、生事不自謀。
自分は老い衰えかかってきてこれまでよりも一層無精で世わたり術が上手くなくなってきた、暮らしむきのことなど自分で工夫しようと思わなくなった。
無食問楽土、無衣思南州。
食物が無くなるとどこか安楽にくらせる土地はないかと人にたずね、衣が無いから暖かい南方の地方へ行こうとおもうのである。』
漢源十月交、天氣涼如秋。
漢源地方(即ち同谷の地方)は十月一日のころだと、天気がすずしい秋のようであるという。
草木未黄落、況聞山水幽。
草木も黄ばんで落ちぬということであり、ましてそこには山水の静かな隠遁地があると聞いている。
#2
栗亭名更佳、下有良田疇。
充膓多薯蕷、崖蜜亦易求。
密竹復冬笋、清池可方舟。
雖傷旅寓遠、庶遂平生遊。
#3
此邦俯要衝、實恐入事稠。
應接非本性、登臨未銷憂。
谿谷無異石、塞田始微收。
豈復慰老夫、惘然難久留。
#4
日色隱孤戍、烏啼滿城頭。
中霄驅車去、飮馬塞塘流。
磊落星月高、蒼茫雲霧浮。
大哉乾坤内、吾道長悠悠。
(秦州より発す)
(乾元二年秦州より同谷保に赴くとき)
我衰えて更に懶拙【らんせつ】なり、生事【せいじ】自ら謀【はか】らず。
食無うして楽土を問い、衣無うして南州【なんしゅう】を思う。』
漢源【かんげん】十月の交、天気涼秋の如し。
草木未だ黄落せず、況んや山水の幽なるを聞くをや。
#2
粟亭【りつてい】名更に嘉し、下に艮田【りょうでん】疇【ちゅう】あり。
腸に充つるに薯蕷【しょよ】多く、崖蜜【がいみつ】亦た求め易し。
密竹【みつちく】には復た冬筍【とうじゅん】あり、清地【せいち】舟を方す可し。
旅寓【りょぐう】の遠きを傷むと雖も、庶【こいねが】わくは平生の遊を遂げん。』
#3
此の邦 要沖【ようちゅう】に俯す、実に恐る人事の稠【おおき】きを。
応接【おうせつ】本性に非ず、登臨【とうりん】未だ憂いを銷せず。
溪穀【けいこく】異石無く、塞田【さいでん】始めて微【すこ】しく収む。
豈に復た老犬を慰めんや、惘然【もうぜん】久しく留まり難し。』
#4
日色孤戍【こじゅ】に隠れ、烏啼きて城頭に満つ。
中宵【ちゅうしょう】車を駆り去り、馬に寒塘【かんとう】の流れに飲【みずこ】う。
磊落【らいらく】星月高く、蒼茫【そうぼう】雲霧浮かぶ。
大なる哉 乾坤【けんこん】の内、吾が道長く悠悠たり。』
現代語訳と訳註
(本文)#1
我衰更懶拙,生事不自謀。無食問樂土,無衣思南州。』
漢源十月交,天氣涼如秋。草木未?落,況聞山水幽。
(下し文)
(秦州より発す)
(乾元二年秦州より同谷保に赴くとき)
我衰えて更に懶拙【らんせつ】なり、生事【せいじ】自ら謀【はか】らず。
食無うして楽土を問い、衣無うして南州【なんしゅう】を思う。』
漢源【かんげん】十月の交、天気涼秋の如し。
草木未だ黄落せず、況んや山水の幽なるを聞くをや。
(現代語訳)
自分は老い衰えかかってきてこれまでよりも一層無精で世わたり術が上手くなくなってきた、暮らしむきのことなど自分で工夫しようと思わなくなった。
食物が無くなるとどこか安楽にくらせる土地はないかと人にたずね、衣が無いから暖かい南方の地方へ行こうとおもうのである。』
漢源地方(即ち同谷の地方)は十月一日のころだと、天気がすずしい秋のようであるという。
草木も黄ばんで落ちぬということであり、ましてそこには山水の静かな隠遁地があると聞いている。
(訳注)#1
發秦州
*〔原注〕 乾元二年自秦州赴同谷縣紀行。
○秦州 甘粛省秦州。
○乾元二年 西暦759年
○同谷県 甘粛省階州の成県、成県はもと西康州治であったが、唐の貞観の初めには成州に属させ、廃康州の同谷県を兼ね領した、天宝の初め同谷郡とし、乾元の初めまた成州となした、作者がいま同谷県というときは当時はかく称したものとみえる、位置は秦州のほとんど正南にあたっている、「九域志」に秦州から成州まで西南二百六十里とある。
1.發秦州→ 2.赤穀→ 3.鐵堂峽→ 4.鹽井→ 5.寒峡→ 6.法鏡寺→ 7.青陽峡→ 8.龍門鎮→ 9.石龕→ 10.積草嶺→ 11.泥功山→ 12.鳳凰台
凡例 薄茶色部分は秦州、ピンク色は成州を示す。
杜甫『秦州雑詩二十首』其三に同谷について述べている。
秦州雑詩二十首其三
州図領同谷、駅道出流沙。
降?兼千張、居人有万家。
馬驕朱汗落、胡舞白題斜。
年少臨?子、西来亦自誇。
秦州雜詩二十首 其三 杜甫第1部 <256> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1217 杜甫詩 700- 370
我衰更懶拙,生事不自謀。
自分は老い衰えかかってきてこれまでよりも一層無精で世わたり術が上手くなくなってきた、暮らしむきのことなど自分で工夫しようと思わなくなった。
○懶拙 ぶしようで世わたりべた。
杜甫『冬末以事之東都,湖城東遇孟雲卿』「懶回」
杜甫『曲江對酒』「懶朝」と謙遜に使ったり、隠者ブル感じの時に使う。
冬末以事之東都,湖城東遇孟雲卿,複歸劉宅宿,宴飲散因為醉歌
○生事 くらしむきのこと。
無食問樂土,無衣思南州。』
食物が無くなるとどこか安楽にくらせる土地はないかと人にたずね、衣が無いから暖かい南方の地方へ行こうとおもうのである。』
○この二句は杜甫が理想と考えていることでよく出て來る言葉である。杜甫が旅に出たり、移動するのは、戦争のためであり、季節はほとんどの場合、秋から冬である。そのため楽なところは、南方面と考えている。
○楽土 『詩経・碩鼠』「樂土樂土,爰得我所。」(楽土、楽土、爰に我が所を得ん)。安楽な土地。安楽なところ。
○南州 南方の地方。
漢源十月交,天氣涼如秋。
漢源地方(即ち同谷の地方)は十月一日のころだと、天気がすずしい秋のようであるという。
○漢源 同谷の地方。成県には西漢水と鳳渓水があり、嘉陵江に注ぐ、嘉陵江は長江の上流の名である。成都近くに漢州、漢源縣があり、温暖で穀物も豊かである場所がある。
〇十月交 『詩経節南山之什 十月之交』の毛伝には「之交は日月の交会なり」とといている、十月一日のこという。
草木未?落,況聞山水幽。
草木も黄ばんで落ちぬということであり、ましてそこには山水の静かな隠遁地があると聞いている。
○黄落 木葉が黄ばんで落ちる。
○幽 静かな隠遁に適した場所。幽邃:景色などが奥深く静かなこと。
#2
栗亭名更嘉,下有良田疇。
「栗亭」などというといかにも栗の産地らしく良い名であり、その下には良い肥沃の田地がある。
充腸多薯蕷,崖蜜亦易求。
山芋が沢山あって腹にいっぱいたべられることができるし、崖に産する蜂蜜もたやすく手に入るようだ。
密竹複冬筍,清池可方舟。
そこの密集して生えている竹林には冬でも笋があるという、澄み切った水をたたえた池には冬でも舟をならべて遊ぶこともできる。
雖傷旅寓遠,庶遂平生遊。』
旅をしている身としては遠すぎるという欠点はあるのだが、日頃したいと思っていた遊びができたらいいなと思うのである。』
1.發秦州→ 2.赤穀→ 3.鐵堂峽→ 4.鹽井→ 5.寒峡→ 6.法鏡寺→ 7.青陽峡→ 8.龍門鎮→ 9.石龕→ 10.積草嶺→ 11.泥功山→ 12.鳳凰台
現代語訳と訳註
(本文)#2
栗亭名更嘉,下有良田疇。充腸多薯蕷,崖蜜亦易求。
密竹複冬筍,清池可方舟。雖傷旅寓遠,庶遂平生遊。』
(下し文)
粟亭【りつてい】名更に嘉し、下に艮田【りょうでん】疇【ちゅう】あり。
腸に充つるに薯蕷【しょよ】多く、崖蜜【がいみつ】亦た求め易し。
密竹【みつちく】には復た冬筍【とうじゅん】あり、清地【せいち】舟を方す可し。
旅寓【りょぐう】の遠きを傷むと雖も、庶【こいねが】わくは平生の遊を遂げん。』
(現代語訳)
「栗亭」などというといかにも栗の産地らしく良い名であり、その下には良い肥沃の田地がある。
山芋が沢山あって腹にいっぱいたべられることができるし、崖に産する蜂蜜もたやすく手に入るようだ。
そこの密集して生えている竹林には冬でも笋があるという、澄み切った水をたたえた池には冬でも舟をならべて遊ぶこともできる。
旅をしている身としては遠すぎるという欠点はあるのだが、日頃したいと思っていた遊びができたらいいなと思うのである。』
(訳注)
#2發秦州
*〔原注〕 乾元二年自秦州赴岡谷縣紀行。
○秦州 甘粛省秦州。
○乾元二年 西暦759年
○同谷県 甘粛省階州の成県、成県はもと西康州治であったが、唐の貞観の初めには成州に属させ、廃康州の同谷県を兼ね領した、天宝の初め同谷郡とし、乾元の初めまた成州となした、作者がいま同谷県というときは当時はかく称したものとみえる、位置は秦州のほとんど正南にあたっている、「九域志」に秦州から成州まで西南二百六十里とある。
栗亭名更嘉,下有良田疇。
「栗亭」などというといかにも栗の産地らしく良い名であり、その下には良い肥沃の田地がある。
○粟亭 隋の時代の驛名、成県の東五十里にあり、秦州を去ること百九十五里。
○田疇 穀の田を「田」、麻の田を「疇」という。
充腸多薯蕷,崖蜜亦易求。
山芋が沢山あって腹にいっぱいたべられることができるし、崖に産する蜂蜜もたやすく手に入るようだ。
○薯蕷 やまのいも。
○崖蜜 蜜蜂ががけでつくるみつ。一種の黒色の蜜峰が山の巌や石壁の閧ノ貯える蜜、一名を「石蜜」という。
密竹複冬筍,清池可方舟。
そこの密集して生えている竹林には冬でも笋があるという、澄み切った水をたたえた池には冬でも舟をならべて遊ぶこともできる。
○密竹 こんではえた竹。
○冬筍 冬できるたけのこ。
○清池 池の名は詳かでない。
雖傷旅寓遠,庶遂平生遊。』
旅をしている身としては遠すぎるという欠点はあるのだが、日頃したいと思っていた遊びができたらいいなと思うのである。』
○方舟 方は二つならべること。
○庶 庶幾に同じ[1]こいねがうこと。切に願い望むこと。[2]目標に非常に近づくこと。
(ここからあとは土地を取得できなかったことの負け惜しみに言っている。)#3
此邦俯要衝,實恐人事稠。
ここの秦州はこの国の様々な分野での要路になっていて、世事・人事、俗事が多すぎることを恐れるのである。
應接非本性,登臨未銷憂。
ここにいて、雑多の人間に応接することは自分の本性ではない、ここでは山水に登臨してみても自分の憂いを晴らすには足らないのである。
溪穀無異名,塞田始微收。
谷をのぞいて、風流の気持ちを起させる奇妙な石がみられるでなく、良い部分を塞が占めて残りの田地からはやっとすこし収穫ができたような始末だ、
豈複慰老夫?惘然難久留。』
これではどうして年取った自分を慰めることができようか、自分は生計の手段がこんなであるためぼんやりとしてしまい、とてもここにはながくとどまっているわけにゆかぬのである。(それだからここを立ち去るのだ。)』
此の邦 要衝【ようしょう】に俯す、実に恐る人事の稠【おおき】きを。
応接【おうせつ】本性に非ず、登臨【とうりん】未だ憂いを銷せず。
溪穀【けいこく】異石無く、塞田【さいでん】始めて微【すこ】しく収む。
豈に復た老犬を慰めんや、惘然【もうぜん】久しく留まり難し。』
現代語訳と訳註
(本文)#3
此邦俯要衝,實恐人事稠。應接非本性,登臨未銷憂。
溪穀無異名,塞田始微收。豈複慰老夫?惘然難久留。』
(下し文)
此の邦 要衝【ようしょう】に俯す、実に恐る人事の稠【おおき】きを。
応接【おうせつ】本性に非ず、登臨【とうりん】未だ憂いを銷せず。
溪穀【けいこく】異石無く、塞田【さいでん】始めて微【すこ】しく収む。
豈に復た老犬を慰めんや、惘然【もうぜん】久しく留まり難し。』
(現代語訳)
(ここからあとは土地を取得できなかったことの負け惜しみに言っている。)
ここの秦州はこの国の様々な分野での要路になっていて、世事・人事、俗事が多すぎることを恐れるのである。
ここにいて、雑多の人間に応接することは自分の本性ではない、ここでは山水に登臨してみても自分の憂いを晴らすには足らないのである。
谷をのぞいて、風流の気持ちを起させる奇妙な石がみられるでなく、良い部分を塞が占めて残りの田地からはやっとすこし収穫ができたような始末だ、
これではどうして年取った自分を慰めることができようか、自分は生計の手段がこんなであるためぼんやりとしてしまい、とてもここにはながくとどまっているわけにゆかぬのである。(それだからここを立ち去るのだ。)』
(訳注)
#3發秦州
*〔原注〕 乾元二年自秦州赴岡谷縣紀行。
○秦州 甘粛省秦州。
○乾元二年 西暦759年
○同谷県 甘粛省階州の成県、成県はもと西康州治であったが、唐の貞観の初めには成州に属させ、廃康州の岡谷県を兼ね領した、天宝の初め岡谷郡とし、乾元の初めまた成州となした、作者がいま同谷県というときは当時はかく称したものとみえる、位置は秦州のほとんど正南にあたっている、「九域志」に秦州から成州まで西南二百六十里とある。
(ここからあとは土地を取得できなかったことの負け惜しみに言っている。)
此邦俯要衝,實恐人事稠。
ここの秦州はこの国の様々な分野での要路になっていて、世事・人事、俗事が多すぎることを恐れるのである。
○此邦 秦州をさす。
○僻要衝 僻は臨に同じ、要衝は交通の要路をいう。秦州は北域と西域に通じる要路であった。又シルクロードの南・北各ルートの分岐点でもあった。この時は吐蕃が沙州に反乱を起こしたため、鎮圧軍の集積地でもあった。衝が沖のテクストもあるが同じ。
○人事稠 世俗の事務が多い。この頃の雑事と云えば、土地取得に関することであろう。それに土地取得してから近隣との付き合いも出て來ることにより憂慮することが多いと感じていた。東西に行きかう人のたまり場であること。
應接非本性,登臨未銷憂。
ここにいて、雑多の人間に応接することは自分の本性ではない、ここでは山水に登臨してみても自分の憂いを晴らすには足らないのである。
○応接 うけこたえをする。○登臨 その地の山に登り水に臨みしてあそぶこと。
溪穀無異名,塞田始微收。
谷をのぞいて、風流の気持ちを起させる奇妙な石がみられるでなく、良い部分を塞が占めて残りの田地からはやっとすこし収穫ができたような始末だ、
○異石 非凡の形状をした石。○塞田 とりでのある地の田。○徴収 すこし収穫がある。
豈複慰老夫?惘然難久留。』
これではどうして年取った自分を慰めることができようか、自分は生計の手段がこんなであるためぼんやりとしてしまい、とてもここにはながくとどまっているわけにゆかぬのである。(それだからここを立ち去るのだ。)』
○老夫 自ずから称する。○憫然 気のぬけたさま。
發秦州
*〔原注〕 乾元二年自秦州赴岡谷縣紀行。
我衰更瀬拙、生事不自謀。
自分は老い衰えかかってきてこれまでよりも一層無精で世わたり術が上手くなくなってきた、暮らしむきのことなど自分で工夫しようと思わなくなった。
無食問楽土、無衣思南州。
食物が無くなるとどこか安楽にくらせる土地はないかと人にたずね、衣が無いから暖かい南方の地方へ行こうとおもうのである。』
漢源十月交、天氣涼如秋。
漢源地方(即ち同谷の地方)は十月一日のころだと、天気がすずしい秋のようであるという。
草木未黄落、況聞山水幽。
草木も黄ばんで落ちぬということであり、ましてそこには山水の静かな隠遁地があると聞いている。
#2
栗亭名更佳、下有良田疇。
「栗亭」などというといかにも栗の産地らしく良い名であり、その下には良い肥沃の田地がある。
充膓多薯蕷、崖蜜亦易求。
山芋が沢山あって腹にいっぱいたべられることができるし、崖に産する蜂蜜もたやすく手に入るようだ。
密竹復冬笋、清池可方舟。
そこの密集して生えている竹林には冬でも笋があるという、澄み切った水をたたえた池には冬でも舟をならべて遊ぶこともできる。
雖傷旅寓遠、庶遂平生遊。
旅をしている身としては遠すぎるという欠点はあるのだが、日頃したいと思っていた遊びができたらいいなと思うのである。』
#3
(ここからあとは土地を取得できなかったことの負け惜しみに言っている。)
此邦俯要衝、實恐入事稠。
ここの秦州はこの国の様々な分野での要路になっていて、世事・人事、俗事が多すぎることを恐れるのである。
應接非本性、登臨未銷憂。
ここにいて、雑多の人間に応接することは自分の本性ではない、ここでは山水に登臨してみても自分の憂いを晴らすには足らないのである。
谿谷無異石、塞田始微收。
谷をのぞいて、風流の気持ちを起させる奇妙な石がみられるでなく、良い部分を塞が占めて残りの田地からはやっとすこし収穫ができたような始末だ、
豈復慰老夫、惘然難久留。
これではどうして年取った自分を慰めることができようか、自分は生計の手段がこんなであるためぼんやりとしてしまい、とてもここにはながくとどまっているわけにゆかぬのである。(それだからここを立ち去るのだ。)』
#4
日色隱孤戍、烏啼滿城頭。
こうして出発すると、太陽の色はさびしい屯兵所のあたりにかくれてしまう、秦州の城壁のうえにはいっぱい烏が啼いている。
中霄驅車去、飮馬塞塘流。
そして夜中まで車を駆りだしていく、冬の川土手の流れのつめたいなかで馬に水をのませる。
磊落星月高、蒼茫雲霧浮。
朝まだきの頭上をみあげると散乱した星や月が高いとこでかがやいている、行く手には雲がわき、霧がたちこめ、はっきりとは見えない。
大哉乾坤内、吾道長悠悠。
ああ大いなるかな天地の内、吾がゆくべき道程は永久に悠悠のところで果てがないのだ。』
(秦州より発す)
(乾元二年秦州より同谷保に赴くとき)
我衰えて更に懶拙【らんせつ】なり、生事【せいじ】自ら謀【はか】らず。
食無うして楽土を問い、衣無うして南州【なんしゅう】を思う。』
漢源【かんげん】十月の交、天気涼秋の如し。
草木未だ黄落せず、況んや山水の幽なるを聞くをや。
#2
粟亭【りつてい】名更に嘉し、下に艮田【りょうでん】疇【ちゅう】あり。
腸に充つるに薯蕷【しょよ】多く、崖蜜【がいみつ】亦た求め易し。
密竹【みつちく】には復た冬筍【とうじゅん】あり、清地【せいち】舟を方す可し。
旅寓【りょぐう】の遠きを傷むと雖も、庶【こいねが】わくは平生の遊を遂げん。』
#3
此の邦 要衝【ようしょう】に俯す、実に恐る人事の稠【おおき】きを。
応接【おうせつ】本性に非ず、登臨【とうりん】未だ憂いを銷せず。
溪穀【けいこく】異石無く、塞田【さいでん】始めて微【すこ】しく収む。
豈に復た老犬を慰めんや、惘然【もうぜん】久しく留まり難し。』
#4
日色孤戍【こじゅ】に隠れ、烏啼きて城頭に満つ。
中宵【ちゅうしょう】車を駆り去り、馬に寒塘【かんとう】の流れに飲【みずこ】う。
磊落【らいらく】星月高く、蒼茫【そうぼう】雲霧浮かぶ。
大なる哉 乾坤【けんこん】の内、吾が道長く悠悠たり。』
1.發秦州→ 2.赤穀→ 3.鐵堂峽→ 4.鹽井→ 5.寒峡→ 6.法鏡寺→ 7.青陽峡→ 8.龍門鎮→ 9.石龕→ 10.積草嶺→ 11.泥功山→ 12.鳳凰台
現代語訳と訳註
(本文)#4
日色隱孤戍,烏啼滿城頭。中宵驅車去,飲馬寒塘流。
磊落星月高,蒼茫雲霧浮。大哉乾坤?,吾道長悠悠!』
(下し文)
日色孤戍【こじゅ】に隠れ、烏啼きて城頭に満つ。
中宵【ちゅうしょう】車を駆り去り、馬に寒塘【かんとう】の流れに飲【みずこ】う。
磊落【らいらく】星月高く、蒼茫【そうぼう】雲霧浮かぶ。
大なる哉 乾坤【けんこん】の内、吾が道長く悠悠たり。』
(現代語訳)
こうして出発すると、太陽の色はさびしい屯兵所のあたりにかくれてしまう、秦州の城壁のうえにはいっぱい烏が啼いている。
そして夜中まで車を駆りだしていく、冬の川土手の流れのつめたいなかで馬に水をのませる。
朝まだきの頭上をみあげると散乱した星や月が高いとこでかがやいている、行く手には雲がわき、霧がたちこめ、はっきりとは見えない。
ああ大いなるかな天地の内、吾がゆくべき道程は永久に悠悠のところで果てがないのだ。』
(訳注)
#4發秦州
*〔原注〕 乾元二年自秦州赴岡谷縣紀行。
○秦州 甘粛省秦州。
○乾元二年 西暦759年
○同谷県 甘粛省階州の成県、成県はもと西康州治であったが、唐の貞観の初めには成州に属させ、廃康州の岡谷県を兼ね領した、天宝の初め岡谷郡とし、乾元の初めまた成州となした、作者がいま同谷県というときは当時はかく称したものとみえる、位置は秦州のほとんど正南にあたっている、「九域志」に秦州から成州まで西南二百六十里とある。
日色隱孤戍,烏啼滿城頭。
こうして出発すると、太陽の色はさびしい屯兵所のあたりにかくれてしまう、秦州の城壁のうえにはいっぱい烏が啼いている。
○孤戍 ぽつんと孤立した屯兵所。
○城頭 秦州の城壁のうえ。
中宵驅車去,飲馬寒塘流。
そして夜中まで車を駆りだしていく、冬の川土手の流れのつめたいなかで馬に水をのませる。
○飲馬 陳琳『飲馬長城窟行一首』「飲馬長城窟。水寒傷馬骨。」を意識させる。
○寒塘 冬のつつみ。
磊落星月高,蒼茫雲霧浮。
朝まだきの頭上をみあげると散乱した星や月が高いとこでかがやいている、行く手には雲がわき、霧がたちこめ、はっきりとは見えない。
○磊落 ばらばらにはなれてあるさま。前々聯「日色」→「烏啼」→「中宵」→「磊落星月高」→「蒼茫雲霧浮」と時間経過を感じさせ、曙が近い空であることがわかる。
○蒼茫 はっきりせぬさま。
大哉乾坤?,吾道長悠悠!』
ああ大いなるかな天地の内、吾がゆくべき道程は永久に悠悠のところで果てがないのだ。』
○吾道 昨夜から車を馳せ道を進むが、これから先の自分の身進むべき道をいい、当面の行く先は同谷であってもはたしてそこで落ち着くことができるのか、ここの段階では希望を持った内容は全くない。
○長 とこしえに、常とも通ずる、つねにの意。
○悠悠 はるかなさま。
解説
最後の四聯の句で時間を感じさせる語を使い、そして、将来という判らないことに続けている。それまでの12連は秦州で隠遁生活を開始することが出来なかった無念を述べており、どうしてこんなに急いで旅立つのか、支援者の援助を待つだけなら秦州で支援を待っていればよいのである。生活ができないのが理由にはならない。一貫して、生活苦であり、秦州が特別ではない。理由は「戦争」である。杜甫は、3年前安禄山軍から家族を連れ逃げ回った苦い思い出がある。地獄の逃避行の様子は数十首もある。中國の西域から東、長安、洛陽、山東は戦争の火が燃えているか、たとえ今消えているようでも、ふたたび燃え始めるような、一触即発の地点であることを再認識させられたのである。この頃杜甫に入ってきたニュースは史忠明が洛陽を再陥落させようと勢力を強めてきたこと、唐王朝の弱体を見て、吐蕃が攻めてくるという噂、これらのために秦州に長居はできないと考えたのである。ただ、目指す同谷もこの秦鄒からは50kmくらいしか離れていない地点なのである。