漢詩(1)杜甫 高胼
1.水檻遣心  杜甫 
2.江村 杜甫   
3.山亭夏日 高駢
漢詩(2)  李商隠
1.夜雨寄北  
2.嫦娥  3.漢宮詞
4.登樂遊原  
5.錦瑟  6.瑤池 
杜甫の年譜
0.はじめに   
1.青年期    
2.長安仕官活動10年
3.仕官と安禄山の乱
4.官辞し乱を避て紀行
5.成都浣花渓草堂 
6.南国漂泊  

 杜甫李白を詠う

 王維ものがたり
1.生誕から26歳 

   












 ● 田園楽 七首

 ● もう川集 20首
李白ものがたり
 李白詩  
 李白ものがたり  
 杜甫を詠う2首と1首
王維・李白・杜甫  その時
杜甫10歳・李白21歳・王維23歳
杜甫25歳・李白36歳・王維38歳
杜甫35歳・李白46歳・王維48歳
    (安史の乱)
  ●安禄山の叛乱
  ●叛乱の背景
各時代の概略と詩人



4.唐時代と詩人
5.宋時代以降
漢文委員会

ご要望・お問い合わせ   漢文委員会 投稿からページ公開まで
もっと見たい>
漢詩総合サイト

http://kanbuniinkai7.dousetsu.com

漢詩総合サイト

http://kanbun-iinkai.com


















漢詩総合サイト
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com
王維
漢詩ブログ

      このページは  王維ものがたり(1)  (現在詩のページは編集中です。王維の「ひととなり」の紹介です。)


(1)漢文委員会ではたくさん紹介したい詩人の詩のページが編集中の場合「ひととなり」年譜を紹介します。その場合、○○ものがたり と題します。

       
1.生誕から26歳まで  試験合格、間もなく左遷

699年1歳
・山西省太原に生まれる 字は摩詰。王右丞とも呼ばれる

709年11歳
・辞(韻文の一体)を作る

713年15歳
・このころ長安に遊学する
「題友人雲母障子」 (君家雲母障)2
王維は九歳のときから詩をつづったと言われるほどの早熟な少年でしたが、多くの若い時分の作品が、ほとんど残っていません。その中で幾つかの詩について「時年十五」という風に制作年を注記して残しています。うえの詩はその最もはやいもので、題注によると十五歳のときの作品です。この一見単純に見える詩を、王維はなぜわざわざ残しておいたのでしょうか。それは王維の後年の詩作の理念が、はからずも十五歳のときのこの詩に現れていたからだと思います。
「過秦始皇墓」(古墓成蒼嶺)3
王維は蒲州(ほしゅう)で生まれ、十五歳まで蒲州で育ちました。蒲州は現在の山西省西南部にあり、河套(オルドス)を北へ迂回したあと南流する黄河が、東へ屈折する地点の左岸にあります。王維の家は代々州の司馬(次官)を勤める家柄で、父親の王処廉(おうしょれん)も汾州(山西省汾陽県)の司馬でした。唐代の州は数県を管轄する地方行政機関で、大きな県城(中国では県は日本の市や町に相当する基礎的な地方自治体)に州府を構えていました。だから王維の家は地方官の家柄と言っていいでしょう。
 王維は十五歳の秋に蒲州を発って、勉学のため長安に出ました。蒲州から長安まで西に百六十`bほどあります。その途中、秦の始皇帝陵のそばを通って作ったのが上の詩です。この詩にも「時に年十五」の題注があり、王維が特に残した詩です。始皇帝陵の内部を見た人はいまもいませんが、『史記』などの書に記述されているので、水銀で川や海を造り、天井には星座がちりばめられて豪奢なものであったことはよく知られています。十五歳の王維は、死後の王墓の無意味な贅沢を批判しています。"
715年17歳 
九月九日憶山東兄弟(獨在異ク爲異客) 4 
王維が十四歳の時の先天元年(712)八月に、唐の第六代皇帝玄宗が即位しました。杜甫はこの年に生まれていますので、王維より十三歳年少ということになります。その翌年、王維が上京した年の七月に玄宗は叔母の太平公主一派を粛清し、則天武后の残存勢力を一掃しました。そして十二月に開元と改元して新政を明らかにしました。
玄宗の開元の盛世のはじまりです。上の詩は「時年十七」の題注がありますので、上京して二年後、開元三年(715)九月九日の作ということになります。この二年間、王維は長安のどこかの寺の宿坊に滞在して勉学に励んでいたと思われます。唐代では書巻は筆写が基本ですので、学生が利用できる本は主として寺院にありました。勉強をするには寺院に下宿するのが一番だったのです。"
・音楽の才能が生まれつきあり,琵琶が巧みで玄宗の弟の岐王に愛される

716年18歳
「洛陽女児行」(洛陽女児対門居)6
開元四年(716)の春、十八歳になった王維は突然春の風雨(あらし)に襲われます。「洛陽女児行」(らくようじょじこう)という歌行(かこう)は擬古的で王維らしからぬ作品ですが、やはり「時年十八」の題注を付して残しているのです。王維の個人的な思いが深かったからだと思われます。全部で七言二十句ですので二回に分けて掲載しますが、まず、「洛陽」というのは地を換えて風雅に詠っているわけで、長安のことです。 女性は王維に琵琶の曲を教えてあげようとでも言って誘ったのかも知れません。とすれば、女性はとんでもない曲を奏でてみせたことになります。思いもかけないことになってしまいましたが、王維は田舎から出てきた貧しい学生(がくしょう)に過ぎません。相手は趙飛燕(漢の成帝の皇后)や李夫人(漢の武帝の夫人)のような貴夫人の家に日ごと招かれるような華やかな生活をしています。王維はここで自分と夫婦の身分の差を強く意識して、越の西施(せいし)がいかに美人であろうとも、貧賎の身分で小川で紗を洗っているような状態では「誰か憐れまん」と、自分を西施と比較して悲観しています。
雑詩五首其一 (朝因折楊柳)7
「洛城の隅」というのは長安の一隅のことで、地を移す手法です。架空の物語というポーズをとるのでしょう。全体は女性の作品のかたちを取っており、これも当時流行した閨怨詩(けいえんし)の手法です。この場合は閨怨ではなく、事実を隠すために嘘っぽく装ったものと考えられます。
雑詩五首其二 (双燕初命子)8「使君」(しくん)は州刺史(州の長官)の尊称である。「御苦労さん。わざわざお訪ねくださいましたが、車を南の小路に止めてしばらくお待ちください」と、小小は使君の入門を止めている。中には先客がいるので、待機を命ぜられたのである。女性の浮気の相手は王維だけではなかったが、このとき女性といっしょに家の中にいたのは、王維ではなかったろうか。そんな感じのする詩である
班u、(怪來妝閣閉) 201
草春行(紫梅発初遍)9"この詩も「洛陽女児行」や「雑詩五首」のはじめの二首と関係があり、首聯で早春の場が設定され、第二聯で女性が登場します。「誰が家ぞ 楊を折る女」は女性を登場させる場合の常套句のようなものです。「春を弄んで及ばざるが如し」には、読む者を詩の世界に誘い込む巧みさがあります。
 女性がひとり春の日を過ごす悩ましいようすを描くもので、池に映した自分の顔をほれぼれと眺めたり、そんな自分を恥ずかしく思ってひとりで顔を赤らめたりします。風が吹けば上着にたきこめた香のかおりが吹き飛ぶのではないかと心配し、裳裾が露に濡れて湿るのを嘆きます。王維の観察というか、想像というか、女性描写が繊細をきわめているのが目立つ詩です。また、女性の悩みに立ち入った詩ですが、それは同時に王維自身の恋の悩みの表現でもあったと思われます。こんな悩みを味合うくらいなら、紅楼の軒端の燕であるよりは、緑のくさはらで二人で棲んでいたころが、どれだけ幸せであったろうかと、王維は反省の言葉で一首を結ぶのです。"

717年19歳
・京兆府(けいちょうふ)試を受けて首席で合格
西施詠(艶色天下重)11
都に有力な手がかりもない王維が、十八、九歳の若さで寧王や岐王の邸に出入りするようになったのは、「対門の家」の夫婦の紹介によるものでしょう。玄宗は父睿宗の三男であり、韋后の宮廷クーデターを制圧して皇太子となり天子となりましたので、兄弟の諸王に遠慮がありました。寧王憲は玄宗の兄、岐王範は弟で、二人は玄宗の別宮、興慶宮の西隣りに邸宅をかまえて栄華を極めていました。王維は美少年の上、詩も書き琵琶も上手に弾じたので、たちまち二王に気に入られ、天才少年と持て囃されるようになりました。しかし、そんな華やかな社交のなかで、対門の家の女性が寧王の妾妃に召し上げられてしまったようです。夫は出世の糸口と喜んだかもしれませんが、王維は容易に女性に近づくことができなくなってしまいました。
李陵詠(漢家李将軍)13
王維が岐王や寧王の邸に出入りしていたころ、李陵(りりょう)についてどう思うかと尋ねられて作った作品でしょう。この詩は五言二十句の長篇ですので、まず前半十句を掲げますが、李陵の生い立ちから匈奴の軍と戦うところまでです
賦得清如玉壷氷(気似庭霜積) 15
府試の題詠は役所が審査する公式のものですが、王維はその詩のなかで自分の複雑な胸の内を語り、分かる人には分かるように仕上げているのです。

718年20歳
息夫人(莫以今時寵)17
宴遊の席で出された詩題に王維が答えた作品と思われますが、王維は息夫人を現在の王の寵愛に感謝しながらも、昔の愛情を忘れない女性として描いています。
雑詩五首 其三(家住孟津河)18唐代の詩に遊女の口を借りて遊興の詩情を述べるものがある。長安のどこかで「?陽の人」と一緒にいたころの作。
雑詩五首 其四(君自故郷来) 雜詩(君自故ク來) 19長安のどこかで「文陽の人」と一緒にいたころの作
雑詩五首 其五(已見寒梅発) 20すでに青春の性の虚しさを知り、女性から遠ざかろうとしている王維の複雑な心境を述べたものと思われます。王維はやがて「?陽の人」と別れ、女性も?水のほとりの故郷に帰っていったと思われます。

719年21歳・進士に及第し、太楽丞(従八品下)になる。当時としては、非常に若い任官で、(宮廷の音楽を司る)王維が琵琶に巧みなのが考慮されたもの。
勅借岐王九成宮 避暑 応教(帝子遠辞丹鳳闕)21
・「応教」というのは皇子の命に応じて作るという意味で、かかげた七言律詩は岐王が避暑のために九成宮(岐山の北にあった朝廷の離宮)に滞在したとき、岐王の命に応じて作ったものです。
少年行四首 其一(新豊美酒斗十千)少年行四首 其二(出身仕漢羽林郎)少年行(新豐美酒斗十千)22
「少年行」というのは楽府(がふ)の雑曲の題で、盛唐の詩人の多くが同題の詩を作っていますが、王維の四首は年代的に見て嚆矢の可能性があります。人々は新しい詩人の新鮮な詩を拍手して迎えたことでしょう。
少年行四首 其三(一身能擘両彫弧少年行四首 其四(漢家君臣歓宴終)少年行(一身能擘兩雕弧) 24
・将軍たちは封侯の印綬を帯びて明光宮を出ていくという次第です。最終場面は宴席で詠われるのにふさわしく、若い王維の詩人としての得意満面の顔が目に浮かぶようです
「燕支行」P28
・新楽府というのは古い楽府題を用いず、創作による歌謡形式の詩という意味で、王維には若くしていろいろな形の詩を作る能力があった。
観猟(風勁角弓鳴)26
・長安近郊を馬に乗って東西に狩猟したことになります。当時はたとえ文官であっても、騎馬と狩猟は士身分の者の必要なたしなみでした。王維も親しい将軍のお供をして鷹狩りに興ずることがあったとわかる詩です。
相思(紅豆生南國)  202

720年22歳
二十二歳になった開元八年(720)の秋、突然の人事異動で済州(山東省荏平県)の司倉参軍(しそうさんぐん)へ転勤を命ぜられます。荏平(しへい)県は現在の済南市の西六十七kmのところにあり、当時は済水の南岸に沿う町であったようです。司倉参軍の品階は下州ならば従八品下で太楽丞と同じですが、地方の役所の倉庫を管理する係りに転勤させられたのですから、明らかに左遷です。王維は岐王の取り巻きのひとりとして派手な詩作活動をしていましたので、皇弟のもとに人材が集まるのを警戒する高官の一部から睨まれたのかも知れません。
 王維は晩秋のころ長安を発って、多分、故郷の蒲州に立ち寄り、陸路を河陽の方へ向かったようです。"
登河北城楼作(井邑傅巌上)27
河北城は陝州(せんしゅう)河北県(山西省平陸県の東北)のことで、その城楼に登って夕暮れの景を詠っています。王維は憤懣やるかたない自分の心を鎮めているようです。
渡河到清河作(汎舟大河裏)28
王維は陸路を東へたどって、河陽もしくは対岸の孟津(もうしん)から舟に乗り、黄河を下ってゆきました。これは清河に着いたときの作品です。清河は当時、交通の要衝で、繁栄した城市であったようです。

被出済州(微官易得罪)29
この詩は済州に着いてすぐの作品でしょう。左遷されたのは天子の本心ではあるまいと、王維は玄宗を信じています。
王維は改めて左遷された身の不運を悔み、「縦え帰来の日有るも 多く年鬢の侵すを愁う」と将来を悲観します。王維はこのときから開元十四年(726)の春まで五年あまり済州にとどまりますが、その間の行動はよく分かっていません。
魚山神女祠歌 二首(坎坎撃鼓)30
王維は「文陽の人」と再会した。済州の東南87kmほどのところに?陽があり、近くに赴任してきたことになる。王維は村祭りにこと寄せて「文陽の人」を呼び寄せたらしい。
魚山神女祠歌 二首(紛進拝兮堂前)31
「文陽の人」と会って王維の心は晴れわたり、最後は「山は青青たり水は潺潺たり」と喜びの心を詠いあげます。

724年26歳
友人の祖詠(そえい)が王維を訪ねて来る済州送祖三二首 其一(相逢方一笑)32・久しぶりの都の友人の来訪に王維はひどく喜びますが、別れの悲しみも深いのでした。 済州送祖三二首 其二(送君南浦涙如糸)33・自分はすっかり憔悴して長安にいたころとは別人のようになったと、長安の友人たちに伝えてほしいというのです。









2. 27歳から35歳まで (洛陽近郊の地方官として 結婚、死別、別荘取得 期)
726年28歳
 王維は開元十三年(725)の九月に休暇を取って故郷の蒲州に帰る予定でしたが、その年の十一月に玄宗の封禅の儀が泰山で行われることになり、王維は上司の済州刺史裴耀卿の指図に従って封禅の行事にかかわります。それば済んだ開元十四年(726)の春に、王維は文陽の人に別れを告げて蒲州に帰り、しばらく滞在したあと長安に上りました。ところが長安に着いたところで、蜀への転勤を命ぜられます。王維はすでに二十八歳になっていますので、故郷では妻帯の話もあったと思われますが、決心がつかないでいたところに思いがけず蜀への転勤命令が出たのです。王維は?陽の人への思いを断ち切る機会になるかもしれないと思って蜀へ赴任したようです。
自大散已往深林(危逕幾万転)自大散已往深林(静言深渓裏)34
蜀道の険路を越えて、はじめての地へ赴く王維の決意が込められているようです。「文陽の人」の憂いから逃れたような気がすると詠っています。
暁行巴峡(際暁投巴峡)36
蜀道の険難を越えて蜀中に赴任してきたのですが、蜀には永くとどまりません。翌年の春には都にもどされ、帰りは「巴峡」(はきょう)、つまり長江の三峡を船で通過して、湖北から北へもどります。三峡の山水の美しさに感心して、いささか旅情を慰められています。

728年30歳
王維は長途の旅をして蜀からもどってきますが、都へ着くとすぐに洛陽方面の地方官に出されたらしく、二年ほど洛陽付近の任地を転々としています。
淇上即時田園(屏居淇水上)38
藍田山石門精舍(落日山水好) 203
寒食上作(広武城辺逢暮春)39
退屈な日々を過ごしていた王維は、ある寒食節の日、それは開元十六年(728)の清明節(陽暦四月はじめ)の前と思われますが、水のほとりで「?陽の人」と再会しました。
文陽の人は王維の勤め先の近くに住み、ふたりは再び逢う瀬を重ねるようになったようです。そのころ王維は嵩山(洛陽の東南54`b)の麓に住んでいました。
帰嵩山作(清川帯長薄)40
嵩山の麓の家に帰りつくと、門扉をぴたりと閉ざした句で終わっていますが、何処で何をし、どこから帰ってきたのか、明示されていません。その日の逢う瀬のあと、王維は文陽の人を見送って河岸に立っているのです。
729年31歳
過李揖宅(閑門秋草色)41 
友人の李揖(りゆう)が、?罔川の家を訪ねてきたときの模様で、「洛陽社」というのは、むかし董京(とうけい)という隠者が洛陽東郊の白社(はくしゃ)というところに住んでいて、逍遥吟詠の隠遁生活を送った故事を踏まえるものです。
?川閑居(一従帰白社)42「?川」(もうせん)というのは地名で、川の名ではありません。藍田(陜西省藍田県)の南に?谷という谷があり、その谷を北へ流れる川を?罔水といい、川沿いに広がる土地を?川と言うのです。王維は?川の家に、まだ?罔川荘という名前はつけておらず、「洛陽の白社」になぞらえています。
・「田園楽七首」は六言四句のめずらしい詩です。六言の句は二言の積み重ねになりますので、啖呵を切るような歯切れのよい詩になります。この詩には、「筆を走らせて成る」という題注が付されており、即興で作ったのでしょう。
田園楽七首 其一(出入千門万戸)田園楽七首(再見封侯万戸)田園楽七首 其三(採菱渡頭風急)43・(其一)いまの世にときめく人を皮肉った詩です。(其二)当時の官界の軽薄なようすを皮肉っています。(其三)?罔川での田園生活を描いています
田園楽七首其四(萋萋芳草春緑)田園楽七首其五(山下弧煙遠村)田園楽七首其六(桃紅復含宿雨)46其四:罔川の田園生活を描いています。其の五の詩では、起承句の遠村の弧煙と高原の独樹が、王維の尊敬する人物(孔子の弟子:顔回 五柳先生:陶淵明)を思い出させます。其の六の詩は王維の生活そのものを詠っており、春の朝の景を写した詩として、王維の佳作のひとつに数えられています。対句も見事で、完成された詩美がうかがえます。田園楽七首其七(酌酒会臨泉水)47
其の七の詩も王維の田園生活のもようです。酌酒抱琴の二句はやや類型化した表現ですが、転結句は独自性のある表現になっていると思います。
酬虞部蘇員外過藍田別業不見留之作(貧居依谷口)48
ある冬の日、尚書省虞部員外郎(ぐぶいんがいろう・従六品下)の蘇という友人が藍田(らんでん)の家を訪ねてきて、たまたま王維が留守であったので、詩を残して帰りました。掲げた詩は無駄足を踏ませたことを詫びる作品
・王維は「文陽の人」と正式に結婚するために、士身分も捨てなければならなかったようです。

731年33歳
・山荘での生活は二年ほどしかつづきませんでした。開元十九年(731)の夏のころ、三十三歳の王維は愛する妻を亡くしました。悲しみに沈む王維を慰めようと、秋になって友人たちが訪ねてきました。
酬諸公見過(嗟余未喪
*「四言 時に官より出で罔川荘に在り」という題注がついている。唐代では士身分の者は納税義務がなく、農民だけ納税を負った。このことで「官より出で」というのは、官を辞任しただけでなく、士身分から農身分に移ったことを意味します。48そのときの詩が「諸公の過らるるに?ゆ」です。この詩は四言三十句の珍しい詩で、四言の詩は主として『詩経』に用いられ、二言の積み重ねによる素朴な表現のものが多いのです。唐代では廃れていた詩形ですが、王維は四言の長詩をつくり、複雑な心境を述べています。  ・客が来ると聞いて準備にあわてる王維のようすが描かれています。妻がいないので料理はどうしようかと心配し、客の数が多いので客に出す敷物も足りません。   ・王維は蒲州の父の遺産も処分したとみえ、客に出す敷物にも事欠くような貧しい生活をしています。自慢できるのは美しい自然だけで、蓮の花の咲いた池に案内します。
・右拾遺(天子の諫官)になる
喜祖三至留宿(門前洛陽客)54
冬になって雪の降るころ、洛陽の祖詠(祖三は排行)が訪ねてきました。祖詠は済州にも訪ねてきたほどの親友で、?陽の人とのいきさつも知っている竹馬の友でした。王維が洛陽の近くで勤務していたとき以来、おそらく四年振りの再会であったでしょう。
734年36歳・妻を亡くした王維は田園の閑居にも意味がなくなり、母や弟妹をかかえて生活にも困窮する面があったのでしょう。妻の三年の喪があけると、張九齢を頼って再び官途につく運動をはじめました。
上張令公(珥筆?丹陛)55
詩は張九齢の勤める宮廷のようすからはじまり、その学才と功績をほめる言葉で埋めつくされています。相当に難しい言葉を使って、文才の高いことを示していますが、これが当時の仕来りとして礼儀にかなった献詩の書き方であったのでしょう。
上張令公(天統知堯後)56
王維はこのとき三十六歳になっており、詩人としては有名でしたが若くはありません。張九齢は詩人としても『曲江集』を残すほどの人物で、都に集まる文人たちの面倒見もよかったので、王維も頼りにしたのでしょう。





このページの先頭へ  トップページへ  > 杜甫の詩  >  王維の詩  >   漢文委員会  > 漢文委員会詳しいHP




3. 37歳から40歳まで (官僚に採用、張九齢が疎外され共にする。 邊塞の地 涼州へ)

735年37歳
王維は士籍からもはずれていたようですので、官に復するには相当の困難があったと思われます。王維が張九齢の推薦によって中書省右拾遺(うじゅうい・従八品上)を拝命したのは、出願して一年ほどたってからでした。・張九齢は王維を自分の部下に採用した
献始興公(寧棲野樹林)57「時に右拾遺を拝す」という題注がついていますので、任官の謝礼として献じたものです。はじめに自己の生活信条を述べて、職務に清廉な良吏であることの覚悟を述べています。
献始興公(側聞大君子)58
右拾遺(うじゅうい)という職は品階は高くありませんが、常に天子の側近にあって朝政の欠をおぎなう職務であり、進士に及第した者の誰もがなりたがる清官(せいかん)です。王維は感激して私曲を図るようなことは絶対にいたしませんと誓っています。被推薦者に非違があると、推薦者も罰せられますので、「帳下」としての約束をしたのです。

736年38歳
送孟六帰襄陽204
孟浩然 48歳 試験あきらめて襄陽に変える

737年39歳
・王維の中書省勤務がはじまった開元二十三年(735)に、李林甫(りりんぽ)が礼部尚書同中書門下三品に任ぜられ、宰相の列に加わりました。李林甫は皇室の支脈につながる門閥官僚で、理財に明るいことから頭角をあらわしてきましたが、知識人である進士出身の同僚を毛嫌いしていました。
 そのころ張九齢は進士系官吏の指導者的立場にいましたので、李林甫から目の敵にされ、開元二十四年(736)の十一月に張九齢は尚書右丞(正四品上)に格下げされ、宰相を辞任させられました。かわって宰相の列に加わったのは李林甫の推薦する牛仙客(ぎゅうせんきゃく)です。
 ところが、翌開元二十五年(737)に御史台の監察御史(かんさつぎょし)で周子諒(しゅうしりょう)という者が牛仙客を弾劾し、その文中に不適切な語があったとして、逆に周子諒のほうが杖刑に処され、さらに?州(じょうしゅう)に流されることになりました。その途中、周子諒は藍田(らんでん)で亡くなりました。殺されたのかもしれません。
 周子諒は張九齢が推薦した官吏であったので、張九齢も連座の罪に問われ、荊州大都督府の長史に左遷されることになりました。大都督府の長史は次官で従三品の高官ですが、荊州(湖北省江陵県)という地方官に追い出されたことになります。
 王維は憤慨しかつ悲しんで、荊州の張九齢に詩を送りますが、張九齢がこんなになってしまったのでは、王維も職にとどまっていることはできません。"
寄荊州張丞相(所思竟何在)59
・王維は中書省を辞任しますが、だからといって帰農することもできません。そのときたまたま母崔氏の一族で崔希逸(さいきいつ)という人が河西節度副使になって涼州(甘粛省武威県)に使府を置いていました。王維はこの人の辟召(へきしょう)を受けて河西節度使の節度判官になります。王維の中央における官途は三年足らずでまたも挫折し、十月には長安を発って涼州に赴きます
双黄鵠歌送別(天路来兮双黄鵠) 60
王維は赴任に際してひとりの女性をともなっていたようです。しかし、やむを得ない理由があって途中で別れ、長安にもどしたようです。王維は自分は朝廷に仕える身であるから、いっしょには住めないと言っているようです。
双黄鵠歌送別(悲笳?唳垂舞衣)61
後半八句のうち、はじめの四句は二人が別れようとして別れがたくためらっているようすです。しかし結局は別かれて、王維は夜になろうとするころ涼州の城に入り、塞では火を燃やして迎えてくれました。
・王維はこのとき三十九歳。もともと風采にすぐれた美男子でしたので、三年近くの右拾遺のあいだに慕い寄る女性があったのでしょう。王維は宿舎に着いてからも憂いに沈み、悲しみに包まれていたと詠っています。

涼州郊外遊望(野老才三戸) 62
王維が涼州に着いたのは開元二十五年(737)の冬十一月でした。すこし落ちついてから、王維は涼州の郊外に出かけて里社(りしゃ)の祭りを見物しました。この祭りは魚山の神女祠の祭りを思い出させたかもしれませんが、辺境の村の村祭りはわびしいものでした。王維はかえって沈んだ気分になったでしょう。
738年40歳
送岐州源長史帰(握手一相送)63
王維が涼州に赴任した翌年、開元二十六年(738)の五月に崔希逸が亡くなってしまいました。崔希逸はかつて門下省か中書省の散騎常侍(従三品)をつとめたことのある太っ腹の人で、幕下に多くの客を集めていました。それらの人々も崔希逸が亡くなると一人二人と去ってゆきます。秋になって涼州の源長史も故郷の岐州(陜西省扶風県)にもどることになり、王維は送別の詩を贈りました。王維は残された旌旗を掲げて「河源」(黄河の源、西域の意味)に向かうと強がりを言っていますが、帰心矢のごとくであったと思われます。








4. 41歳から45歳まで (朝廷に復帰、高級官僚に抜擢)

739年41歳
・開元二十七年(739)には王維自身も長安にもどることができました。王維は御史台(ぎょしだい)察院の監察御史(正八品上)に任ぜられたのです。旧職の右拾遺よりは二品階上ですから昇格しての帰任ということになります。       ・ 長安にもどった王維は、さっそく西北方面の視察に派遣されます。
使至塞上(銜命辞天闕)使至塞上(屬國過居延) 64
詩はそのときのものですが、王維の意気込みが先の涼州ゆきとまるで違うのが読み取れます。漢に時代を借りた辺塞詩(へんさいし)であり、当時の辺塞詩のなかでは秀作のひとつである。
出塞作(居延城外猟天驕)65
「居延城」は涼州の北北西460`bの砂中にあり、漢代の最前線の砦でした。「護羌校尉」は漢の武帝のときに置かれ、青海地方の羌族を支配しました。「破虜将軍」は三国呉の孫堅(そんけん)の称号で、夷狄(いてき)を討つという意味があるので採用したのでしょう。「遼河」は漢の東北国境を流れている川です。「玉?・角弓・珠勒の馬」はいずれも褒美の品で、それを貰うのは漢の名将霍去病(かくきょへい)である。この詩も、漢代に仮託した辺塞詩である。

740年42歳
・王維は西北方面に出張した翌年の開元二十八年(740)に、同じ御史台の殿中侍御史(従七品上)に昇格します。その仕事として知南選(ちなんせん)に選ばれ、黔中(けんちゅう)都護府に派遣されます。長安から黔中(湖南省?陵県付近)へ行くには襄陽(じょうよう)を通るのが道筋ですので、途中、襄陽にいる孟浩然を訪ねました。
 実は張九齢が荊州大都督府の長史に左遷されたとき、孟浩然は張九齢の幕下に採用され荊州に行っていたのですが、この年の二月に張九齢が亡くなったので襄陽にもどっていたのです。十年振りに孟浩然と再会した王維は、当然、張九齢の死を悼み、政事の現状などを話題としたことでしょう。"張九齢(ちょう きゅうれい、678年 - 740年)。702年に進士に及第し、寒門の出ではあったが宰相の張説に認められて校書郎・右拾遺・中書侍郎を歴任し、玄宗時代の733年以降は尚書右丞相の任にあたった。のち、李林甫や楊国忠らと衝突し、荊州(湖北省)に左遷され、官を辞した後は故郷に帰り文学史書に親しんだ。安禄山の「狼子野心」を見抜いた人物。「開元最後の賢相」として名声高く、孟浩然や王維に希望を託されたこともある。
漢江臨汎(楚塞三湘接)66
詩は襄陽に滞在中、漢水に舟を浮かべて遊んだときの作品と思われます。「山翁」というのは晋の山簡のことで、襄陽に勤務して遊び暮らしたという故事がありますので、孟浩然を山簡にたとえて一緒に酔いましょうと、酒興の挨拶を詠っているわけです。
登辨覚寺(竹径従初地)67
辨覚寺(べんがくじ)は洞庭湖の近くにあった寺と推定されます。黔中(けんちゅう)の往復の間に立ち寄ったと思われます。
 この詩には高度の仏教的観念に因っており、仏教の悟り境地が表現されている。張九齢の死にあって、王維のこれまでの仏教に対する研究が、ここで一気に結実したものと思われます。 「無生」は王維が後によく用いる仏教語で、「生死を超える無我の境地」と通俗的に訳した。"

740年42歳
・文部郎中(文部次官)になる。黔中(けんちゅ)での仕事を終えて長安にもどる途中、王維が再度、襄陽(じょうよう)に立ち寄ると、思いがけないことに孟浩然は背中に疽(そ)を患ってすでに亡くなっていました。享年は五十二歳です。
哭孟浩然(故人不可見)李白:「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」(故人西辭黄鶴樓 )68
王維は驚くとともに、友の死を悼んで詩を作りました。この詩には「時に殿中侍御史たり知南選として襄陽に至りて作有り」の題注がありますので、襄陽での作品であることがわかります。詩中の「蔡洲」は漢水の流れにある中洲で、三国魏の曹操の遺跡の地として有名でした。詩人がいて詠ってこそ山水の美も意味があると、王維は孟浩然の死を悼むのです。

741年43歳
・開元二十九年(741)の春、玄宗皇帝は玄元皇帝、つまり老君(老子)から夢のお告げがあり、楼観山の山中で老子の大像を発見しました。玄宗はその老子像を興慶宮に祀り、「玄元皇帝の玉像を慶ぶの作」という詩を作りました。王維は召されて御製に奉和する詩(応制の詩)を作っています。

・ 翌天宝元年(742)に王維は殿中侍御史から中書省の右補闕(従七品上)になっています。

742年44歳
奉和聖製慶玄元皇帝玉像之作 応制(明君夢帝先)69
天宝元年は当年二十四歳であった楊太真が玄宗の寵愛を受けはじめたころで、王維は驪山の温泉宮への行幸にも扈従(こじゅう)しています。

743年45歳
寒食城東即事(清渓一道穿桃李)70
宮廷で堅苦しい詩をつくっている王維も、宮廷の外に出ると自然の美や世のさまをのびのびと詠います。この詩は清明節と上巳節が重なることから、天宝二年(743)の寒食節に際しての詩と推定されています。節日の前後は休日で、気候のいい季節ですので、人々は踏青(野外での遊び)に出かけるのです。王維も東の郊外に出かけたようです。
 しかし、一見自然描写のようですが、最初の二句「清渓 一道 桃李を穿ち 演漾たる緑蒲 白?を涵す」は『史記』や「楚辞」に出てくる語句を踏まえていて、清廉な生き方を求める王維の当時の政界に対する批判が込められているように思われます。このころ宰相李林甫の権力は強くなり、反対派排除の強引なやり方は正義感の強い王維の心を暗くするものでした。「けまり」や「ぶらんこ」は当時の若者の好む遊びでしたが、のんきに遊び呆けている若者たちへの批判の気持ちものぞかせています。"
送元二使安西(渭城朝雨?輕塵)
王維は生涯に多くの送別の詩を作っていますが、ほとんどの作品が制作年次不明です。1「送別の薄儀」になった詩。「陽関三畳」(『陽関』を三回繰り返す)と謂い、離別の情を叙べる詩歌。元家の二男が安西都護府に使者として(旅立つのを)見送る。
送劉司直赴安西(絶域陽関道)71
詩題にある「劉司直」は経歴不明の人ですが、元二と同じく「安西」に使者となって赴いたのです。このころの安西都護府は現在の新疆ウイグル自治区庫車(クチャ)にありましたので、ずいぶん遠くへ旅することになります。王維は先輩官吏として訓戒を垂れているようです。
送韋評事(欲逐将軍取右賢)72
「韋評事」も経歴不明の人で、王維の友人でしょう。詩は辺塞詩の形式を踏んで時代を漢に借りています。「右賢」(ゆうけん)は匈奴の右賢王のことで、北から南をみて右翼を掌握している部将です。「居延」(きょえん)は現在の甘粛省酒泉の北にあった居延関で、右賢王に対峙する漢代の城塞です。「漢使」は公務で地方に出る者をいい、必ずしも使者とは限りません。
別弟縉後登青龍寺望藍田山(陌上新別離)
旅の別れには、官途に就いている肉親との別れもあります。王縉(おうしん)は王維の一歳年下の仲のよい弟です。詩には弟の身を思いやる王維のあふれるような真情が詠われています。205"王縉は藍田の谷を通って南へ山を越え、南陽か江南のほうへ赴任してゆくようです。唐代の長安城の東壁にある延興門は新昌坊のすぐ近くにあり、新昌坊のあたりは高台になっています。青龍寺は新昌坊の東南隅にあって、日本僧空海が学んだ寺として有名です。
 延興門は長安城の東の正門ではありませんので、王縉はこの門から出ていったのではないと思われます。王維は弟を見送った後、新昌坊の高台に登って弟の去っていった方角を眺め、この詩を作ったものと思われます。

"







5. 46歳から54歳まで (半官半隠、別荘で過ごす)

744年46歳
・年を載(さい)と呼ぶようになった天宝三載(744)ころから八年間ほどの王維の伝記はほとんどわかっていません。四十六歳から五十三歳までの期間ですので、詩人としても官吏としても脂の乗り切った重要な時期であり、多くの詩が書かれたと思われますが、ほとんどが制作年次を確定できないものばかりです。
 そのころの作品のひとつに「時に庫部員外たり」と題注のある詩がありますので、尚書省兵部の庫部員外郎(従六品上)になったことが知られますが、正確な時期は不明です。

745年47歳
帰罔川作(谷口踈鐘動)73天宝四載(745)に楊太真が貴妃になり、玄宗はますます寵妃にのめり込み、政事の実権は宰相の李林甫に移っていったことにあるでしょう。朝廷の現状に失望した王維は、再び?川の山荘に通うことが多くなります。詩中の「楊花」は柳絮(りゅうじょ)のことで、春に純白の綿を散らすように空中に飛び散ります。
罔川別業(依遅動車馬)74
「別業」(べつぎょう)というのは別荘のことです。泰平の世ですので、武器庫を管理する庫部員外郎は閑職であったと思われますが、勤めを持つ身であれば、いつまでも?川にとどまっていることはできません。いやでも都にもどる必要があり、王維はのろのろと馬車を動かし、「松蘿」(松にまといつく蔓)の茂る林を抜けて都への道をたどってゆきます。五言絶句は王維の特色となる詩形です。それが現れはじめたことはエポックといえるでしょう。
746年48歳
和太常韋主簿五郎温湯寓目(漢主離宮接露台)75 
太常寺というのは九寺(行政の執行機関)のひとつで、国の祭祀を司る役所です。王維は武器庫担当の員外郎ですので、特に召されなければ驪山に扈従する必要がなかったものと思われます。王維は宮廷詩をあまり好きでありませんので、代わりの詩人が出てきたので励ましているのかも知れません。また「韋五」と排行で呼んでいますので、親しい詩人であり、お祝いを言っているのかも知れません。

748年50歳
積雨罔川荘作(積雨空林烟火遅)76
王維は華清宮での玄宗の華やかな宮廷生活に背を向けるように、しばしば?川の家に通って閑雅を愛するようになりました。?川の別荘を「?川荘」と呼ぶようになったのもこのころのことでしょう。詩の最後で、王維はもはや宮廷での席次を争う気もなくなったと詠っています。
山居秋暝(空山新雨後)77
詩は罔川山荘の秋の景です。五言律詩ですが、前半四句は易しい語を使って含蓄の深い景色を詠い出しており、これだけで五言絶句として独立できそうです。後半四句で人が登場し、村の生活が詠われます。「浣女」(洗濯をする女)たちの声は竹林の向こうから聞こえ、釣り舟の通る動きは蓮の葉の動きで示され、間接的な表現になっています。描き方に王維の工夫が凝らされている部分です。

749年51歳
過知香積寺(不知香積寺)
香積寺は、秦嶺山脈の支脈のさきの、川の合流点にある。おそらく変化に富んだ風光の地だったのだろう。道を失うほど古木が生い茂り、もしかすると香積寺からかもしれない鐘の音が、遠くに聞こえる。奇岩のあいだを流れる泉水の音、梢をこぼれる陽射し。山景をとりいれた、夏でも涼しい閑静な庭。道をくだると、山端をめぐる流れの淵にでる。岩のうえに坐る。そこから、善導大師の舎利塔が、木の間がくれに見えたかもしれない。

750年52歳
・罔川荘は、はじめは宋之問の古い別荘を購い取っただけのものでしたが、罔川の別荘にしばしば通うようになってから、すこしずつ広げていったようです。そうした時期に王維と特に親しく交流するようになったのが裴迪(はいてき)です。王維は詩題で裴迪を秀才(しゅうさい)と呼んでいますので、貢挙(こうきょ・後の科挙)の予備試験である郷試(ごうし)に及第しただけの若い詩人であった。

罔川闍書。裴秀才迪(寒山転蒼翠)78
五言律詩。王維は裴迪を酔っぱらいの「接與」(論語に出てくる楚の隠者)と呼び、自分を「五柳先生」(陶淵明の自称)と呼んで、からかっています。

酌酒与裴迪(酌酒与君君自寛)79
裴迪(はいてき)が進士の試験に落第してしょげているところを、王維が自分の家に呼んで、酒を酌みながら慰めている作品でしょう。ここに述べられている人生観は、親子ほども年の違う裴迪を励ます意味もあると思いますが、このころの王維自身の感懐でもあったと思います。

750年52歳
・天宝九載(750)に王維は母を亡くしました。王維は五十二歳でしたので、母崔氏は享年七十歳くらいだったでしょう。王維は悲しみのために食事も咽喉を通らなかったといいます。親が死ねば三年間の喪に服することになり、勤務につくことができません。

751年53歳

752年54歳
・喪が明けた天宝十一載(752)に王維は文部郎中(従五品上)に任ぜられました。その年の三月に尚書省の吏部が文部と改称されていますので、旧称では吏部郎中になったわけで、官吏の任免に関する重要な職についたことになります。天宝十一載の十一月に宰相李林甫が亡くなり、楊貴妃の又従兄妹にあたる楊国忠が宰相になっており、楊国忠は文部尚書を兼ねていますので、王維を文部郎中に起用したのは楊国忠かもしれません。










5. 55歳から亡くなるまで (王維詩の芸術性が完成に域に 安史の乱を過ごす)
753年55歳
勅賜百官桜桃(芙蓉闕下会千官)80 桜桃が実るころですので、翌天宝十二載(753)の春のことと思われますが、掲げた詩には「時に文部郎中たり」との題注があり、王維が文部郎中としてさくらんぼの下賜に与ったことがわかります。しかし、尾聯の二句をみると、王維はあまりありがたがっていないようです。
・同じ天宝十二載(753)に秘書監(従三品)の朝衡(晁衡とも書く)が日本に帰ることになりました。朝衡とは安倍仲麻呂の中国名で、開元五年(717)に学生(がくしょう)として入唐以来、貢挙にも及第して唐朝に仕えてきたのです。在唐三十七年に及び、この年、遣唐使藤原清河の一行が帰国するのに際して共に帰国することを許されたのでした。

送秘書晁監還日本国(積水不可極)81 王維は友人であった朝衡に送別の詩を贈っています。なお、このときの遣唐使の帰国は大規模なもので、四艘の船から成っていました。安倍仲麻呂の乗った第一船は風雨に遭って南海に漂流し、三、四年かかって長安にもどってきます。そのため安倍仲麻呂は帰国の機会を失い、唐土で亡くなりました。第二船には鑑真和尚が乗っており、風雨に遭って難破しそうになりましたが、十二月二十日に薩摩の国に漂着しています。
・ 楊国忠が宰相になってから安史の乱が起こる天宝十四載(755)十一月までの三年間は、楊貴妃一族が全盛を謳歌した時代ですが、?川荘はその間に完成に近づいていきました。王維はそのころに門下省の給事中(正五品上)に昇進していますが、王維には妻も子もなく、母も亡くなり、弟妹もそれぞれ身を立てていたでしょうから、王維の収入はすべて罔川荘の経営に注ぎこまれたものと思われます。
竹里 (獨坐幽篁裏)
鹿 柴 (空山不見人) 

755年57歳
・安禄山の乱起こる  天宝十四載(755)十一月九日早朝、安禄山は幽州(北京)で兵を挙げ、安史の乱がはじまります。安禄山軍は十二月十三日には洛陽に入城し、翌天宝十五載正月、安禄山は洛陽で即位して国号を大燕と称します。その年の六月八日、唐の潼関の守りは破られ、玄宗は六月十三日早朝、楊貴妃や皇族、一部の側近を連れて長安を脱出し蜀地へ蒙塵(もうじん)します。
 王維は都に取り残され、隠れていたところを安禄山軍に捕らえられます。長安で賊に捕らえられた高官は洛陽に連行され、大燕の役人として仕えることを強要されました。王維も旧職と同じ給事中に任ぜられ、後に偽官(ぎかん)の罪に問われることになります。"

756年58歳
・賊軍に捕らえられる
菩提寺禁裴迪来相(万戸傷心生野煙)菩提寺誦示裴迪(萬戸傷心生野煙) 102
王維が菩提寺に禁足されていたとき、裴迪が監視の目をかいくぐって訪ねてき、その話を聞いて作ったものです。凝碧池は洛陽の離宮の庭園にあった池で、安禄山はその離宮を皇居にしていました。王維はこの詩によって、偽官になったが、それは強制されたもので唐朝への忠誠心は失っていなかったことが証明され、罪を許されます。

757年59歳
・唐では天宝十四載七月に粛宗が即位し、その月から至徳元載(756)になります。粛宗の軍が長安と洛陽を回復するのは至徳二載(757)の十月になってからです。粛宗は十月二十三日に長安に帰還し、賊の偽官(ぎかん)を受けた者の処罰が論ぜられます。王維も罪人として洛陽から長安に連れてこられ、死罪になる可能性もありました。しかし、弟の王縉が自己の功にかえて兄の命乞いをし、また先の詩があったために許されて、太子中允(正五品上)に任ぜられました。 
既蒙宥罪旋復拝官(忽蒙漢詔還冠冕)103 詩は許されたあと、天子の恩に感謝するとともに、知友の「使君」(州刺史の尊称)等に挨拶として贈ったものです。「鳴珂」は馬のくつわに付けた鈴のことで、馬に乗って宮中に伺候しましょうという意味です。

758年60歳
・  十二月には上皇玄宗も蜀から都にもどってきました。翌至徳三載(758)は二月に改元があり、載も年に改められて乾元元年になります。安慶緒はまだ河北にあって兵を集めていますが、長安は都回復の喜びに満ちています。
  ・ この春、王維(おうい)、賈至(かし)、岑参(しんじん)、杜甫(とほ)、四人の詩人が中書省と門下省に揃っており、杜甫も生涯で一番幸福な時期です。
  ・王維は太子中允からすぐに中枢にもどり、中書舎人(正五品上)になっています。

和賈舎人早朝(絳??人報暁籌)104
・同僚の賈至が伝統的な七言律詩で宮廷風の詩を作りましたので、他の三人がそれに和しています。ここでは王維の和する作をかかげました。
759年61歳 
 ・乾元元年、詩人たちの希望に満ちた日は永くはつづきませんでした。粛宗の朝廷には霊武に同行した即位前からの直臣と即位後に参加した玄宗時代からの朝臣があり、両者は政府の主導権をめぐって対立していました。賈至も杜甫も岑参もほどなく地方に左遷され、王維だけがひとり残されました。王維は脅従官(偽官)の汚名を背負っていましたので遠慮した動きをしていたのでしょう。それに王維は当時、都で第一の著名詩人でしたので、宮廷としても手放したくない理由があったと思います。しかし、本人としては居心地のいい状況ではありません。王維はこのころから終南山の別業(別荘)に親しむようになりました
終南別業(中歳頗好道) ---入山寄城中故人---105終南山の別荘での生活、心境を詠っています。
贈除中書望終南山歌(晩下兮紫微)P20106この詩は同僚とみられる除中書舎人に贈る作品ですが、五言と六言が混在し、即興の詩であると思われます。しかも「兮」(けい)を各句に用いて楚辞風にしているのは、公職の身をはばかる何かがあるからと思われます。「馬を双樹に駐め」とありますが、「双樹」は二本の木ではないでしょう。ここでは「沙羅双樹」(さらそうじゅ)が意識されており、仏教への関心が暗示されていると思います。
送別(下馬飲君酒)送別(下馬飮君酒) 107"題は「送別」となっていますが、この詩は誰かを送る詩ではなく、みずからの心境を語る自問自答の架空の送別詩と思われます。五言六句の詩で外に出すような作品ではありません。
 詩中に「南山」の語が出てきますが、終南山の省略であると同時に陶淵明の南山でもあります。王維は隠退して終南山の別業にひきこもるかどうか迷っており、行くなら行け、二度ともどっては来れないぞと決めかねているのです。最後にぽつんと、「白雲は尽きる時無し」と言っているところが、王維らしくて好ましいと思います。"
759年"  ・前年十月に洛陽を敗退した安慶緒は相州(河南省安陽市)の?城(ぎょうじょう)に拠点を構え兵六万を集めていましたので、朝廷は乾元元年(758)九月に九節度使の軍を?城に差し向けました。このころ杜甫が崔氏の東山草堂に招かれ、その西隣りにあった王維の?川の別荘が無人であることを詩に詠っています。その詩のなかで「西荘の王給事」と言っていますので、王維はそのころ給事中の旧職に復していたようです。王維は?川荘の門は閉じたまま、もっぱら終南山麓の別荘を利用していたようです。
 当時、長安の南郊、長安県の神禾原(しんかげん)にあったとみられる香積寺を王維が訪れたのは、このころのことかもしれません。"
過香積寺(不知香積寺)108この五言律詩は王維の名作のひとつに数えられています
  ・王維はこのころ?川荘の一部を寺として寄進しています。亡き母と妻の菩提を弔うためです。寺は清源寺と名づけられ、壁には王維自身の手による?川図が描かれていたそうですが、寺は残っていません。絵も亡んでいますが、王維が画家としても堪能であったことは文献によって知られています。

  ・ 乾元二年(759)の春、いったん唐に復して幽州に駐屯していた史思明が安慶緒を助けると称して兵を出してきました。?城を包囲していた政府軍は、三月に相州の野で史思明の軍を迎え、一戦しましたが大敗してしまいました。援軍として?城に入った史思明は安慶緒を殺してその兵を奪い、大軍となって西進してきました。史思明軍は四月には洛陽に攻め入り、史思明は大燕皇帝を称します。

 

酬郭給事(洞門高閣靄余暉)109 詩題の「郭給事」は王維の同僚の給事中でしょう。国家の危機に際して王維に贈った詩に対して答えたのが掲げた詩です。すでに六十一歳になっている王維は、あなたについてゆきたいが、老いのためについてゆけない、辞職のことも考えていると心境を述べています。
酬張少府(晩年唯好静)110このころ張少府にも返礼の詩を贈っています。「少府」というのは県尉(県の治安担当)に対する敬称ですから、身分は王維よりも遥かに低く、年齢も若い詩人であったと思われます。若い詩人から「窮通の理」を問われて、王維はほとんど隠遁に近い心境を述べています。結びの「漁歌」は楚辞の「漁父」(ぎょほ)に出てくる詩句を踏まえるもので、王維はいまの世についてゆけないと言っているようです。
山居秋暝(空山新雨後) 111
送別(山中相送罷)  112
鄭果州相過(麗日照残春)113
「五馬」というのは五頭立ての馬車のことで、州刺史身分の者に許されていました。だから州刺史のことを「五馬」というのです。鄭氏は果州(四川省南充県付近)の刺史でした。その鄭果州が草深い「窮巷」(貧しい村)を訪ねてきました。詩中の「磨鏡客」や「潅園人」にはそれぞれ典拠がありますが、王維自身のことでもあり、王維が親しんでいる布衣(ふい)の隣人のことでもあると思います。
 王維は馬車で乗り込んできた鄭果州に料理の粗末なことを詫びていますが、王維は当時、給事中の職にあったのですから貧乏暮らしではなかったはずです。「阮家の貧」と言っているのがその証拠で、阮家(げんか)は晋の阮籍・阮咸のことで、清貧の暮らしをしたことで有名でした。州刺史として豪勢な暮らしをしている鄭果州へ皮肉を言っているのかも知れません。"

760年62歳 
 ・王乾元二年(760)は閏四月に改元があり、上元元年となります。洛陽は史思明軍に占領されたままです。そのころ王維は給事中から尚書右丞(正四品上)に昇進しています。三品階あがったことになりますが、仕事はむしろ実権のない閑職に移ったと言っていいでしょう。
答張五弟 雑言(終南有茅屋)答張五弟(終南有茅屋)114 そのころ旧友の張五弟が訪ねてきたいと言って来ました。張五は王維と兄弟の契りを結んでいましたので、弟と言っています。張五(五は排行)は天宝年間に刑部員外郎(従六品上)になりましたが、すでに官を辞して郷里に隠退していました。その郷里というのが宜城(河南省宜陽県)で、史思明軍の支配下にある城市です。張氏は敵中の街に住んでいたくないので、王維のところに世話になれないか尋ねて来たのかもしれません。冒頭の「終南」は終南山の略ではなく、「終・南」と区切って読むべきであるという説に従って訳しました。

哭殷遥二首其一(人生能幾何)115
王維は世の中の姿と政事の現状に失望していましたが、自然と人への愛情を失ってはいませんでした。殷遥(いんよう)は天宝年間に忠王府倉曹参軍事(正八品下)という微官にいましたが、王維に師事して教えを請うようになっていました。ところが妻を亡くして貧しいために葬式も出せずにいるところに、あとを追うように殷遥自身が亡くなってしまいました。あとに残されたのは十歳になる娘ひとりです。
 全二十句の五言古詩ですので、前半十句をまず掲げますが、長安の郊外にあったらしい殷遥の家のあたりの寒々としたようすが描かれています。"
          (行人何寂莫)116
殷遥の生前、殷遥から「無生」の境地について教えを請われていましたが、そのことについて充分に説明してやれなかったことを、王維はひどく後悔しています。また官途の昇進についても力になれないまま死なせてしまったことを「爾に負くこと一途に非ず」と心に詫びながら、泣き叫びつつ家に帰るのです。心のなかで「痛哭」しながら歩いていったのでしょうが、結句の誇張した表現には真実がこもっていると思います。

哭殷遥二首其二(送君返葬石楼山)117
其の二は七言絶句で、殷遥の埋葬を詠います。埋葬は石楼山(せきろうざん)というところの墓地で行われたらしく、「埋骨」とありますので、火葬したのでしょうか。中国では土葬するのが習慣ですので、火葬したのは仏教の信者だったからでしょう。埋葬が終わると人々は足早に帰ってゆきます。山からは一筋の細流が麓のほうへ流れていたようです。王維は人生の無常をかみ締めながら山を下りてゆきます。
歎白髮(宿昔朱顏成暮齒) 118

  ・上元二年(761)の春三月、史思明軍に異変が起きました。後嗣のもつれから、大燕皇帝史思明が息子の史朝義によって殺害されたのです。史朝義は帝位を奪って洛陽に入ります。唐としては反撃の好機ですが、この年、長安では大雨のために飢饉となり、有効な反撃ができませんでした。飢饉に際して、王維は天子の許しを得て自分の禄米のほとんどを窮民に施しました。

761年63歳
夏日過青龍(龍鐘一老翁)119 
そんな夏のある日、王維は裴迪をともなって青龍寺の操禅師を訪れました。青龍寺は楽遊原の一角にあって、日本の空海が真言密教を学ぶことになる寺ですが、それはこのときから四十三年後のことになります。詩中にある「義心義」は『法華経』方便品にあって、仏道の第一義という意味、究極の真理をさす言葉と解説にあります。つぎの句の「空病空」は空に拘泥するのも空の病であって、そのことも空であるということのようです。王維はこの詩で禅の極意を詩に盛り込もうとしていますが、これは唐代の詩では珍しいことです。
  ・ 王縉はそのころ蜀州刺史の任にあって都を遠く離れていました。王維の願いは聴き入れられ、弟は門下省左散騎常侍(従三品)に任ぜられ、都に帰って来ることになりました。

秋夜独坐(独坐悲双鬢) 120
 この年、夏の盛りを過ぎるころから、王維は病気がちになってきました。南山の別業でひとり病に臥しながら、王維が考えるのは仏教の説く「無生」(むしょう)の理です。人を含めすべての存在は本質的に存在しないものであり、単なる現象にすぎない。だから発生することも消滅することもないという悟りの世界ですが、無生の境地に至りたいと念じても、それは言うはやさしく、悟達するのは難しい世界でした。ひとりでいるのが淋しくなったのでしょう。王維は上書して弟の王縉(おうしん)を近くに呼び寄せるように願い出ます。
臨高臺送黎拾遺(相送臨高臺) 121
入山寄城中故人(中歳頗好道) 122

 王縉が長安の西の鳳翔までもどってきていた秋七月のある日、王維は弟に別れの書をかき、また平生親しかった人々へ数篇の別れの書をかいている途中、にわかに筆を落として息絶えたと伝えられています。享年六十三歳、王維は弟に会えないまま、また彼の人生の最後を襲った安史の乱の終息を見ないまま亡くなりました。

終南山(太一近天都)123
信頼する弟王縉が帰ってくるのを待ちながら、病床の王維の頭に去来するのは、元気なころに作った「終南山」の詩であったかもしれません。ここには終南山という存在そのものの思想と意義が述べられています。



このページの先頭へ  トップページへ  > 杜甫の詩  >  王維の詩  >   漢文委員会  > 漢文委員会詳しいHP