漢詩(1)杜甫 高胼
1.水檻遣心  杜甫 
2.江村 杜甫   
3.山亭夏日 高駢
漢詩(2)  李商隠
1.夜雨寄北  
2.嫦娥  3.漢宮詞
4.登樂遊原  
5.錦瑟  6.瑤池 
杜甫の年譜
 0.はじめに   
1.青年期    
2.長安仕官活動10年
3.仕官と安禄山の乱
4.官辞し乱を避て紀行
5.成都浣花渓草堂 
6.南国漂泊  
杜甫李白を詠う
 王維ものがたり
1.生誕から26歳    2. 27歳から35歳 (洛陽近郊の地方官)  




李白ものがたり
 李白詩  
 李白ものがたり   杜甫を詠う2首と1首
王維・李白・杜甫  その時
杜甫10歳・李白21歳・王維23歳
杜甫25歳・李白36歳・王維38歳 
杜甫35歳・李白46歳・王維48歳
    (安史の乱)   安禄山の叛乱
叛乱の背景
各時代の概略と詩人



4.唐時代と詩人
5.宋時代以降




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時代・詩人
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     このページは 各時代の概略とその時代の詩人を紹介します。


1.紀元前の時代

■夏  前2205〜前1766

中国最古と伝承される王朝。夏后ともいう。『史記』『竹書紀年』など中国の史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在が見直されてきている。
■殷〔商〕前1766 〜 前1122
殷(いん、紀元前17世紀頃 -紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には夏王朝を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。商(しょう)とも言われる。
■西周    前1020〜前770
周(しゅう、紀元前1046年頃 -紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。また、時代の名前にも使い、「周代」と言えば、紀元前1046年頃から、遷都して東周となるまでの紀元前771年の間のことを指す。国姓は姫(き)。周代においていわゆる中国高文明が成立したとみられる。

■東周    前  770〜(前221)
周12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し別の皇后たてたため、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、太子は西の携王と争って打ち勝ち、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ移った。ここからは東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行した。
春秋時代 前770〜(前403)
紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年までである。
                       【詩】『詩經』雅・頌等

    呉越の戦い(前494〜473)             管仲・鮑叔  「詩経」

論語 
孔子  (前551〜479) 本名は孔丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑の人。父母は不詳。『史記』によると、父は叔梁?、母は顔氏。魯に仕え、委吏・司職吏を歴任した。南宮敬叔の推薦で周の都に赴き、礼について学んだ。このとき老子と対談したともいう。魯の昭公の二十五年(前517)、三桓氏が乱を起こし、魯の昭公は斉に亡命した。孔子もまた斉に移り、高昭子の家臣となって、斉の景公に近づいた。景公にたびたび進言したが、斉の大夫に孔子暗殺の動きが出たため、斉を去り帰国した。魯は定公の時代となり、季桓子の臣・陽虎が政権を握ったが、孔子は陽虎をきらって仕官せず、学問に専念した。陽虎が失脚して亡命すると、中都の宰に任命され、司寇に上った。定公の十年(前500)、斉と和睦し夾谷に会見をおこなうこととなったが、孔子は毅然と対応して対等の盟約を結ばせ、異民族の音楽を鳴らした斉の景公を叱責して面目を失わしめたという。魯が富強となるのをおそれた斉によって、魯の定公のもとに美姫や駿馬が贈られた。定公は政務への意欲を失い、郊の日に祭肉が配られないのを見て、孔子は弟子たちとともに魯を去った。衛の霊公に登用されたが、身の危険を感じて去った。汲フ町では、孔子が陽虎と似ていたという理由で兵の包囲を受けた。宋に行き、宋の桓?に危害を加えられた。鄭では弟子たちとはぐれたが再会し、陳に三年間寄寓した。さらに南行して楚を志したが、楚の葉公に失望して、魯への帰途についた。陳・衛・蔡を経て帰国した。その後、仕官することなく、弟子たちに教育した。七十三歳で没した。儒家の祖とされる。

戦国時代 前403〜前221
中国史において、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある。紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。
           
  (紀元前372年? - 紀元前289年) 本名は孟軻。字は子輿、または子車、子居ともいう。鄒の人。子思の門人に学び、孔子の学問をきわめた。斉の宣王に仕えたが、意見が採用されなかった。宋、滕、魏、任、魯、薛に遊説し、諸侯に説いたが、受け入れられなかった。唐・虞・三代の聖王の徳を称賛する彼の説は、当時の政治の現実から懸け離れていたためだった。郷里に帰り、門人の公孫丑や万章らとともに詩経・書経を整理し、また『孟子』を著した。性善説を説き、仁義にもとづく王道政治を理想とした。

屈原  (〜228 泊羅の淵で投身)[前340ころ〜前278ころ]中国、戦国時代の楚(そ)の政治家・詩人。名は平。原は字(あざな)。楚の王族に生まれ、懐王に仕え内政・外交に活躍したが、讒言(ざんげん)により次の頃襄(けいじょう)王の時に追放され、放浪の果てに、汨羅(べきら)に身を投じたという。「楚辞」に約20編の詩がある。        「離騒」「九歌」「天問」「九章」

伯夷(はくい)  生没年不詳  伯夷・叔斉  孤竹国の王子。伯夷は父の意を察して弟の叔斉に譲位して出奔したが、叔斉も長幼の順に背くことを嫌って兄を追い、ともに周の西伯昌を頼った。当時の周はすでに武王の時代で、父の喪中の軍事は不孝不忠であると諫めたが聴かれず、滅殷の後は首陽山に篭り、周の糧を拒んで餓死した。孤竹国からの出奔と、紂王討伐を否定したことは民衆の存在を無視した行為ではあったが、孔子・孟子・司馬遷らからは至徳の賢人として絶賛された。        采薇歌

宋玉(そうぎょく)  生没年不詳  中国、戦国時代、楚(そ)の文人。楚王に仕え、のち落魄の生涯を送ったといわれるが、生没年・伝記ともに未詳。屈原の弟子とされる。「九弁」(「楚辞章句」所収)「高唐賦」「神女賦」「対楚王問」 

荊軻(けいか) (未詳-前 227) 中国、戦国時代の刺客。衛の人。燕(えん)の太子丹の命で、秦の亡命将軍樊於期(はんおき)の首と燕の地図を携えて秦の都咸陽に赴き、秦王政(せい)(始皇帝)の暗殺をはかったが失敗して殺された。     易水歌

秦 前221〜前206  始皇帝   万里の長城増築   
                     詩に詠われた万里の長城

鴻門の会 咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。

項籍(項羽)  (こうそく・こうう)  前232〜前202]  中国、秦末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。叔父項梁とともに兵を挙げ、漢の高祖(劉邦)と協力して秦を倒し、楚王となった。のち、劉邦と天下を争うが、垓下(がいか)の戦いに敗れ、烏江(うこう)で自殺。謡曲。五番目物。唐の烏江の野辺の草刈り男の前に、項羽の霊が現れ、回向を頼み、激戦の模様を語る。

漢  前漢 前202〜8前154 呉蘇七国の乱

王昭君おうしょうくん   生没年未詳   中国、前漢の元帝の宮女。名は(しょう)。昭君は字(あざな)。のちに明妃(めいひ)・明君ともよばれる。匈奴(きょうど)との和親政策のため呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁がせられた。その哀話は、戯曲「漢宮秋」などの文学作品や、人物画「明妃出塞図」の題材となった。
 南郡出身。諱は牆。元帝の後宮にあったが、匈奴との融和のために公主とされて呼韓邪単于に降嫁し、寧胡閼氏と称されて一子を産み、単于の死後は後継の復珠累単于の閼氏とされて2女を産んだ。
 絶世の美女でありながら宮廷画工の毛延寿に贈賄しなかった事で醜女に描かれ、そのため匈奴に送られ、長城を越えるところで嘆き死んだとされる王昭君の悲劇譚は、華北を支配した異民族に圧迫された六朝時代に成立したものと考えられる。王昭君伝説は以後も脚色を重ねて戯曲『漢宮秋』となり、傑作として欧米にも紹介された。     "怨詩

高祖(劉邦)(こうそ・りゅうほう)[前247〜前195]中国、前漢の初代皇帝。在位、前206〜前195。字(あざな)は季。廟号(びょうごう)は高祖。沛(はい)
県(江蘇省)の人。始皇帝没後の前209年、陳勝・呉広の乱を機に挙兵。項梁・項羽と連合して軍を進め、項羽に先立って咸陽を陥れ、漢王に封ぜられた。さらに前202年、項羽を垓下(がいか)の戦いに破って天下を統一、長安を都として漢朝を創始大風歌

司馬遷  「史記」

漢-武帝 [前156〜前87]  中国、前漢第7代の皇帝。在位、前141〜前87。廟号(びょうごう)、世宗。名は劉徹。高祖劉邦の曾孫。儒教を公認し、中央集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。秋風辭

蘇武(そぶ)[前140ころ〜前60]中国、前漢の武将。杜陵(とりょう)(陝西(せんせい)省)の人。字(あざな)は子卿(しけい)。匈奴(きょうど)に使節として行き、19年間抑留されたが、節を守りとおして帰国した。詩(留別妻一首)



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2.後漢時代・三国時代
新 8〜23

卓文君(たくぶんくん)  生没年不詳  前漢の蜀(しよく)の富豪の娘。文人の司馬相如(しようじよ)と知り合い、成都に駆け落ちして辛苦をともにした。のち相如が心変わりした際、「白頭吟」を作って決別の意を示した。後世、戯曲などの題材とされる。白頭吟

漢  後漢25〜220 

李延年(りえんねん)(生没年不詳) 前漢の人。漢の武帝に仕えた楽人。妹は武帝の寵姫李夫人だが彼女の死後李延年への寵愛も衰え、武帝は李延年や兄弟、宗族を誅殺した。歌

張角(ちょうかく)[?〜184]中国、後漢末の道士。鉅鹿(きょろく)(河北省)の人。黄老の道を説いて太平道を創始。184年、数十万の信徒を従えて黄巾(こうきん)の乱を起こしたが、病没蒼天已死

赤壁の戦い(208)

蔡邑(さいよう)(132/133年 - 192年)後漢代の政治家、儒者、書家。清廉潔白な人物で、宦官に嫌われて官職を追われたこともある。董卓が後漢王朝の実権を掌握したとき、董卓に気に入られ侍御史治中、尚書、侍中、左中郎将と異例の昇進をした。彼は歴史家でもあり、後世に評価される史書をいくつも書き残している。王允が董卓を誅殺したとき、その死を惜しんだため、それを怒った王允によって殺害されたという。・翠鳥 諸葛亮  ・梁甫の吟 馬良  ・白眉

関羽(かんう)(?〜219)中国、三国時代の蜀(しょく)の武将。河東(山西省)の人。字(あざな)は雲長。張飛とともに劉備(りゅうび)を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死んだ。後世、軍神として各地の関帝廟(かんていびょう)に祭られた。無  題

班捷、(はんしょうよ)(生没年不詳)中国・前漢成帝の愛人。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。怨歌行
建安文学 (けんあんぶんがく)
 中国の後漢末期、建安年間(196年 - 220年)、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を
擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。辞賦に代わ
り、楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、儒家的・礼楽的な型に囚われない、自由闊達な文調を
生み出した。激情的で、反骨に富んだ力強い作風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会
や民衆の混乱に対する想い、未来への不安等をより強く表現した作品が、数多く残されている。

建安の三曹七子
 1)孔融・2)陳琳・3)徐幹・4)王粲・5)応楊・6)劉驕E7)元禹、建安の七子と曹操・曹丕・曹植の三曹を同列とし、建安の三曹七子と呼称する。

1) 孔 融(こう ゆう)153年 - 208年  後漢末期の人。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。子の名は不詳。
2) 陳 琳(ちん りん)  未詳 - 217年 後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。飲馬長城窟行    易公孫?與子書
3) 王 粲(おう さん)177年 - 217年、)は、中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王?の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王?、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。登樓賦   公讌詩   詠史詩   七哀詩三首   從軍詩五首
4)


5)
徐幹 (とかん)  未詳 - 217年 北海郡劇県の出身。字は偉長。零落した旧家の出で、高い品行と美麗典雅な文章で知られた。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に進んだ。隠士的人格者で、文質兼備であると曹丕から絶賛された。『詩品』では下品に分類される。
応楊 (おうよう) 未詳〜217  字は徳l。汝南郡南頓の人。応cの子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。建安七子のひとり。
6)  (りゅう てい)  未詳- 217年"  後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫)
"贈従弟三首
7) 阮禹 (げんう) 未詳〜212 陳留尉氏の出身。字は元瑜。蔡?に就いて学問を修め、曹洪の招聘を拒否
して鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。章表書記において陳
琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。
三国時代184〜280
三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の
乱の蜂起(184年)から[要出典]、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹
丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。
黄巾の乱(こうきんのらん)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反
乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志
演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機と
なった。

三曹
 1)曹操・2)曹丕・3)曹植を三曹と呼称する。

1) 武帝(曹操)(ぶてい・そうそう) 155年 - 220 後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。・短歌行 ・求賢令 ・亀雖寿 ・蒿里行 ・薤露
2) 曹丕(文帝そうひ・ぶんてい)187〜226三国時代の魏(ぎ)の初代皇帝。在位220〜26。曹操の長子。字(あざな)は子桓(しかん)。諡号(しごう)、文帝。廟号は世祖。父を継いで魏王となり、後漢の献帝の禅譲によって帝位につき、洛陽を都と定め、国号を魏と号した。九品中正法を施行。詩文を好み、楽府にすぐれた。著「典論」など。寡婦   ・典論  ・画餅  ・燕歌行  ・善哉行  ・王は驢鳴を好めり
3) 曹植(そうしょく)[192〜232]中国、三国時代の魏(ぎ)の詩人。字(あざな)は子建。曹操の第3子。陳王に封ぜられたので、陳思王とも呼ばれる。五言詩にすぐれた。そうち。→建安体 →七歩(しちほ)の才七歩詩 ・怨詩行  ・野田黄雀行  ・贈白馬王彪  ・左顧右眄


蔡炎  さいえん177年? - 239年   中国後漢末から魏初の詩人。 陳留郡圉県の出身。字は文姫。蔡?の娘。はじめ衛仲道に嫁いだが死別し、195年に献帝の洛陽還都に随う途中で南匈奴に捕われ、左賢王の側室とされて2子を産んだ。後に曹操に贖われて帰国して董祀に嫁し、董祀が死罪を犯すと蓬髪徒行して曹操に助命を嘆願し、赦免を得たのち蔡?の賜書4千余巻のうち、誦憶した4百余篇を遺誤無く筆写した。
 夙に文才を謳われ、『悲憤詩』は広く知られる。その境遇は古くから王昭君と並称され、匈奴にある身を嘆いた『胡笳十八拍』もその代表作として愛されたが、これは後人の仮託とする説が有力。  "悲憤詩  胡笳十八拍
 230年頃 竹林の七賢  中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んで清談を行なってと交遊した代表格の七人を言う。
  1)阮籍(げんせき) 2)奚康(けいこう)  3)山濤(さんとう)  4)劉伶(りゅうれい)   5)阮咸(げんかん)    6) 向秀(しょうしゅう)  7)王戎(おうじゅう)

1) 阮籍(げんせき)210〜263三国時代の魏の思想家・文人。陳留(河南省)の人。字(あざな)は嗣宗。竹林の七賢の一人。酒を好み、礼法を無視し、俗人を白眼視した故事で有名。老荘の学を好み、「達荘論」「大人先生伝」を著した。詠懷詩  ・白眼視
2) 奚康(けいこう)(223〜262)字は叔夜。?郡の人。?昭の子。河内郡山陽に住んだ。竹林に入り、清談にふけった。あるとき訪ねてきた鍾会に挨拶せず、まともに相手をしなかったので恨まれた。官は中散大夫に上った。呂安の罪に連座して、刑死した。竹林七賢のひとり。『養生論』、『釈仏論』、『声無哀楽論』。 ・幽憤詩 ・贈秀才入軍五首 ・呉謡 ・呂安題鳳
3) 山濤(さんとう)(205〜283)字は巨源。河内郡懐県の人。山曜の子。幼くして孤児となり、貧乏であった。老荘を好み、阮籍・?康らと交わった。四十を過ぎてはじめて官界に入り、始辟郡主簿に任ぜられた。曹爽と司馬氏の争いが起こると難を避けて身を隠した。のち司馬師のもとに出仕した。晋に入ると、新沓伯に封ぜられ、吏部尚書・太子少傅・冀州刺史を歴任した。尚書右僕射・侍中に上った。竹林七賢のひとり。『山濤集』。 『山濤集』
4) 劉伶(りゅうれい)(211〜300)  またの名は霊。字は伯倫。沛国の人。晋の建威参軍となったが、飲酒癖が激しく、放言を好んだ。阮籍・?康らと交わった。竹林七賢のひとり。「酒徳頌」。 酒徳頌 ・劉伶戒酒  ・屋室を[巾軍]衣と為す
5) 阮咸(げんかん)(210〜263)字は嗣宗。陳留郡尉氏の人。阮?の子。はじめ蒋済が招いて、尚書郎となり、曹爽の下で参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った。次いで司馬懿が招いて従事中郎に取り立てた。酒を飲む便宜のために、求めて歩兵校尉に移った。読書・山行に親しみ、形式的な礼法に反対した。方外の人には青眼をもって、俗人に対しては白眼をもって接したという。司馬昭がかばい続けたので寿命を全うした。竹林七賢のひとり。「詠懐詩」などの詩も残した。『阮歩兵集』。 詠懐詩
6) 向秀(しょうしゅう)(227?〜272)字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。?康・呂安と交友した。?康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って?康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。 思旧賦
7) 王戎(おうじゅう) 234〜305字は濬冲。琅邪郡臨沂の人。王渾の子。王衍の従兄にあたる。相国掾から豫州刺史に累進した。征呉戦に参加し、投降者の招撫にあたった。呉が平定されると、安豊県侯に封ぜられた。尚書左僕射に上り、吏部を宰領した。司徒にまで上った。顕官にありながら談論にふけり、晋朝の危機にありながら政務に関心を持たなかった。性至孝、蓄財を楽しみ、倹嗇であったという。竹林七賢のひとり。 此必苦李




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3. 3世紀半ばから7世紀  晋から隋の中国統一国家樹立期 


西晋   265〜316
左思   250頃〜305頃   中国西晋の文学者。臨(りんし)(山東省)の人。字(あざな)は太沖(たいちゅう)。
構想10年で書きあげた「三都賦」の人気が洛陽の紙価を高めた故事で知られる。詩では詠史詩にすぐれる。
詠史詩
五胡十六国   301頃〜439
西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌  )であったことからこの名がある。
一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。
おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。
東晋   317〜420
王羲之   303年 - 361年東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。行書・楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之と共に二王と呼ばれる。「蘭亭序」「楽毅論」「十七帖」などの作がある。「蘭亭序」(353)「楽毅論」「十七帖」

陶淵明(陶潜)365〜427六朝時代の東晋の詩人。江西の人。名は潜。淵明は字(あざな)。一説に名は淵明、字は元亮(げんりょう)。官職に就いたが、束縛を嫌い、彭沢(ほうたく)県の県令を最後に「帰去来辞(ききょらいのじ)」を作って官を辞し、故郷へ戻った。自然を愛する田園生活を送り、すぐれた詩を残した。詩では「飲酒」、文では「桃花源記」が有名。五柳先生。「飲酒」「桃花源記」 五柳先生。
南北朝時代   439(420)〜589  中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。
この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。

また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。
南北朝  420589
宋420年の建国から589年隋による統一までの時代
(420〜479)南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓から劉宋とも呼ばれる。
(479〜502)南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。
(502〜557)南北朝時代に江南に存在した王朝。
陳(557〜589)南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の王朝。
■北魏  386〜535
この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
西魏(535〜556)北朝の国の一つ。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の呼び名。本来の国号はみな魏である。それぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。
東魏(534〜550)北朝の国の一つ。函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名。「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。
北周(556〜581)鮮卑の宇文氏によって建てられた国。国号は単に周であるが、紀元前11世紀の周と区別するために北周と呼ぶ。
北斉(550〜577)高氏によって建てられた国。国号は単に斉であるが、春秋戦国時代や南朝の斉などと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。
■隋    581〜618
文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、後継の煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。


     このページは 各時代の概略とその時代の詩人を紹介します。



4.唐時代と詩人
■唐    618〜907   唐宋時代と詩人
  李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮
半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本は遣唐使などを送り、894年(寛
平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。なお、690年に武則天により唐王朝は
廃されて武周王朝が建てられたが、705年に失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて
叙述されることが通例である
唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。一般に、唐の歴史を初唐、盛
唐、中唐、晩唐の4期に細分して通観する。


    初唐 618年〜712までの約100年。 初唐の詩人たち

 前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の
詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ば
れる、@王勃・A楊炯・B盧照鄰・C駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈?期・宋之問
などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった
陳子昂が現れた

 魏徴 上官儀 王勃 盧照鄰 駱賓王 劉希夷 楊炯 陳子昴 上官婉兒 宋之問  沈栓期  郭振 朱
放 張


盛唐  712〜765 玄宗皇帝の時代 盛唐の詩人たち

  唐代の最盛期を反映し、多くの優れた詩人を輩出した時期である。修辞と内容が調和した詩風
は、それまでの中国詩歌の到達点を示している。代表的詩人には、中国詩歌史上でも最高の存在と
される李白と杜甫を頂点として、王維孟浩然岑參高適王昌齢などがいる。


王翰    ・蘇廷    ・張説    ・張九齢   ・張若虚    ・賀知章   ・包融    ・張旭 
  ・王之渙    ・孟浩然    ・李預    ・崔     ・王維    ・裴迪     ・楊貴妃  
   ・王昌齢     ・賈至     ・荊叔     ・嚴武     ・高適    ・李白     ・杜甫 
   ・崔敏童    ・岑參     ・常建    ・張敬忠    ・儲光羲    ・崔敏童    ・崔國
輔    ・崔惠童    ・樓穎    ・皎然     ・薛業




■ 安史の乱その時
  はじめに 
 特にこの天才3詩人にとって安史
の乱がもたらしたものは計り知れ
ない大きな出来事でした。触れ合
う人間たちが、戦争により追いつ
められたときにどうかわるのか? 
3人3様の人生がありました。
  ●安禄山の叛乱  ●叛乱の背景  ●どうして長期に及んだのか
3.その
皇帝  玄宗   粛宗  タラス河畔の戦い
官僚1  高仙芝   郭子儀   李光弼   顔真卿  哥舒翰
官僚2  李輔国    高力士   楊国忠
詩人  王昌齢   高適   裴迪   張謂  賈至  岑参  儲光羲
 詩人の安史の乱(対比表) 王維  李白  ;杜甫
叛乱軍
寝返  張均    張汨   陳希烈  達奚c
参加  安禄山  安慶緒  史思明  


中唐  766〜835  中唐の詩人たち 

 中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元槇らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、それぞれが多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。薛濤




晩唐  836〜907 晩唐の詩人たち


 晩唐は繊細で感傷的な詩風が主流となる。代表的な詩人として杜牧・李商隠・温庭均・韋荘・韓癒がいる。さらには王朝の衰退に伴う社会の動乱を憂え、詩歌による社会改革を訴えた皮日休・陸亀蒙などの詩人も現れている。  魚玄機





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5.宋時代以降
五代十国  唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)
と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。
  ●五代十国、宋、元、明、清、近現代の詩人たち
■宋   960〜1279年   北宋の詩人
 王朝の興亡と民族の盛衰に伴い、祖国と自民族を想い、壮懐を詩詞句に託した作品が、数多く生まれ、現
在に残されています。
      とりわけ、宋代では北方に非漢民族の国家・遼(契丹)、西夏が興り、華北を脅かし、
さらに遼の滅亡の後は、女真(後の満州民族)の金が興り、華北を抑え、やがて、靖康之変の後は、漢民族
の国家・宋は江南半壁に追いやられた事実があります。(北宋地図) 特に靖康之変後、江南の宋(南宋)
は、中原の奪回を目指し、金と、やがては元と抗争し、詞の世界では燃え上がり、媾和に際しては、民族意
識が強く盛り上がりました。 蘇東坡  林逋
   ・北宋  960〜1127  ・遼 916~1125  ・西夏 1038〜1227
   ・南宋 1127〜1279  ・金 1115〜1234

■元   1271〜1368年   
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配し、その後は北へ逃れ、遊
牧政権としては最終的には1635年まで存続したモンゴル人王朝であり、モンゴル帝国の皇帝直轄世襲領で
ある。元朝(げんちょう)とも言う。正式の国号は大元(だいげん)。
     中国王朝としての元は、北宋崩壊(1127年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は
明(1368年 -1644年)が中国統治を引き継ぐ。ただし、後述するように、元は制度や政治運営の特徴において、
モンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の
類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に
大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある。

■明   1368〜1664年    宋時代以降の詩人
明(みん) 1368年 -1644年  明朝ともいい、中国の歴代王朝の一つ。大明と号した。朱元璋が元を北へ逐っ
て建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。元に対し、白蓮教徒
が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋
(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。万里の長城以南の中国
は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が初めて、唯一である。

■清   1636〜1912年    宋時代以降の詩人
 このサイトでは特に唐・宋時代を中心に詩詠句を見ていきます。できるだけ、階級論争に触れないことを前
提に詩人の背景、思想、等、従来の考え方と対比して行こうと思います。したがって、元以降の歴史的記述
は少ないことをお許し願います。