李白の生涯(6) 


3-2山簡、酒‐−襄陽歌


Index-U― 4-729年開元十七年29歳 
ID詩題詩文初句
729-000729  己巳 玄宗 開元一七年 
729-001  安州般若寺水閣納涼喜遇薛員外乂(卷二三(二)一三二八)?然金園賞,遠
729-002  安州應城玉女湯作【案:《荊州記》云:「(常)有玉女乘車投此泉。」】(卷二二(二)一二六三)神女歿幽境,湯
729-003  秋夜於安府送孟贊府還都序(卷二七(二)一五八八)  夫士有飾危
  長相思(卷六(一)四六一)日色欲盡花含煙
 擬古十二首其十一(卷二四(二)一三七八三)(此首文字與卷二五(二)一四八六)?江弄秋水,愛
 感興八首其八【案:集本八首,?二首與古風同,前已附註,不重?。】(卷二四(二)一三九○)嘉穀隱豐草,草

李太白集 131《太白巻五26 長相思 二首之一 》 李白 kanbuniinkai 紀 頌之 ...
134 《擬古,十二首之十一》Index- 9U―4-729年開元十七年29歳 <134> T李白詩1317 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5133
李太白集134《太白巻二十三23感興,八首之八》 李白kanbuniinkai 紀頌

山簡、酒‐−襄陽歌

27歳から、35歳頃までの李白の生活は、つぃぎの歌に良くあらわされている。安陸より西二〇〇キロメートルにある風光明媚な水の街、襄陽を訪れたとき作った詩であろう。734年開元22年、李白34歳の作、《襄陽歌(卷七(一)四七三)》がある。詩と酒を生涯の好き友とした李白の処世態度・人生観がすでにここに現われていることは注目すべきである。「歌」とか「行」という命題をつけたいわゆる歌行体というものが、唐代に流行した。もとはリズムをもって歌われた歌謡調であったが、このころは必ずしも歌われたものではない。しかし、律詩・絶句と異なり、自由な伸び伸びした調子を持っている。このときの李白の気持ちを表わすに最もふさわしい調子であったのであろう。彼は歌う。山簡についての詩も多くある。
山簡について詠っている詩
卷164_12 《襄陽曲四首》李白 山公醉酒時,酩酊高陽下。頭上白接z5,倒著還騎馬。
卷164_12 《襄陽曲四首》李白 且醉習家池,莫看墮?碑。山公欲上馬,笑殺襄陽兒。
卷167_1 《秋浦歌十七首》李白 醉上山公馬,寒歌ィ戚牛。空吟白石爛,?滿K貂裘。
卷169_3 《憶襄陽舊游,贈馬少府巨》李白 昔為大堤客,曾上山公樓。開窗碧嶂滿,拂鏡滄江流。
卷170_17 《江夏贈韋南陵冰》李白 山公醉後能騎馬,別是風流賢主人。頭陀雲月多僧氣,
卷174_12 《留別廣陵諸公(一作留別邯鄲故人)》李白 乘興忽複起,棹歌溪中船。臨醉謝葛強,山公欲倒鞭。
卷175_3 《送王屋山人魏萬還王屋》李白 吾友揚子雲,弦歌播清芬。雖為江寧宰,好與山公群。
卷175_16 《魯郡堯祠送竇明府薄華還西京(時久病初起作)》 高陽小飲真瑣瑣,山公酩酊何如我。竹林七子去道?,
卷181_28 《?山懷古》李白 弄珠見遊女,醉酒懷山公。感歎發秋興,長松鳴夜風。
  
卷166_1 《襄陽歌》李白
  落日欲沒?山西,倒著接籬花下迷。襄陽小兒齊拍手,
  ?街爭唱白銅?.傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。
  ??杓,鸚鵡杯。百年三萬六千日,一日須傾三百杯。
  遙看漢水鴨頭香C恰似葡萄初??。此江若變作春酒,
  壘麹便築糟丘台。千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。
  車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。咸陽市中歎?犬,
  何如月下傾金罍。君不見晉朝羊公一片石,
  龜頭?落生莓苔。?亦不能為之墮,心亦不能為之哀。
  清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。舒州杓,力士鐺,
  李白與爾同死生。襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。
襄陽歌
落日欲沒?山西,倒著接籬花下迷。
襄陽小兒齊拍手,?街爭唱白銅?。
傍人借問笑何事,笑殺山翁醉似泥。
落日は没せんと欲 ?山の西に、倒しまに接籬を著けて花下に迷う。
襄陽の小児は斉しく手を拍ち、街を?って争って唱う白銅?。
傍人は借問す何事を笑うと、笑殺す 山公酔うて泥に似たるを。
「?山」というのは襄陽の町の西南にそびえる山である。「ここに夕日が沈もうとしている」。
夕にが沈むのがきれいな襄陽の街での李白の気持ちを象微するようでもある。この襄陽はかつて竹林の七賢の年長者山濤の子、山簡が長官として治めていた所であり、山簡も酒飲みで、外出したときは常に泥酔して、白い帽子をあべこべにかぶっていたという。当時の民謡にも、そのことが歌われていた。この詩でも、その山公と同じように白い帽子をかぶって酔って李白が花の下をさまよい歩いているとみられる。「白銅?」は、梁の武帝の時、襄陽付近で流行した民謹。「襄陽の少年たちは、李白の白い帽子をかぶって泥酔しているのを笑いながら、白銅?を唱って通りを横切ってゆく。この様子を通りがかりの人が何を笑うのかと聞くと、昔の山公さまと同じように泥酔している李白の姿が、とてもおかしい」という。酔うことは李白の人生にとっては、何よりもたいせつなことでもある。

襄陽には、歓楽街の「大堤」があり、また、この時期に歌は続いて酒のことを大いに詠う。
??杓,鸚鵡杯。
百年三萬六千日,一日須傾三百杯。
遙看漢水鴨頭香C恰似葡萄初??。
此江若變作春酒,壘麹便築糟丘台。
百年三万六千日、一日須らく三百杯を傾くべし。
温かに看る漢水は鴨頭の緑なるを、恰も似たり葡萄の初めて??するに。
此の江若し変じて春の酒と作らば、塁なれる麹は便ち糟丘の台を築かん。
 うの首にまねた杓とおうむ貝で作った杯、ともに仙女の西王母の所にあったという酒器。「人生百年として三万六千日、一日三百杯は飲む必要があろう」。昔の漢の大学者鄭玄が一日三百杯欽んだといわれるように。酒飲みの李白から見れば、襄陽のそばを流れる戻水の緑の流れさえ酒に見えてくる。「鴨頭緑」とは、染色の名であり、鴨頭の緑毛色に喩えたもので、実際は漠水の青く澄んだ色をいったもの。「この波立っている漢水の緑色は、葡萄酒が湧き立って醗酵するのに似ている」。李白の想像はさらに大きく飛隠する。「この漢水で春の新しい甘い酒を作るとすれば、酒をこしたあとの麹が積み重なって、いわゆる『糟丘台』ができあがるであろう」。「糟丘台」は、昔、夏の柴王が、荒淫酒色にふけり、酒で池を作り、その糟がたまって丘となったという。
襄陽歌、李白の酒の礼贊はさらに続く。
??の杓,鸚鵡の杯。  
千金駿馬換小妾,笑坐雕鞍歌落梅。
車傍側掛一壺酒,鳳笙龍管行相催。
咸陽市中歎?犬, 何如月下傾金罍。
千金の駿馬を小き妾に換え、笑って離れる鞍に坐し落梅を歌う。
車の傍らに側めに往く一壹の酒、鳳笙竜管行ゆく相い催す。
咸陽の市中に黄犬を歎く、何ぞ月下に金の罍を煩くるに如かん。
 昔、魏の曹彰は、いつも妾を携えて、豪奢な生活をしていたが、駿馬を見て、その若き妾と交換したという。と同じように、自分も高価な駿馬を、わが若き妾と交換して求め、これに美しき鞍置いて、楽しく乗り出て落梅曲を歌う。むろん牽く車の傍らには一壹の酒が横ざまにつるされているし、もはやそれを飲んでいる。同乗の人々が奏する鳳の形をした笙、竜の鳴き声をする管でかなでる音楽はわが酒興をかき立ててくれる。これこそは李白がもっとも希望する行楽と酒興の境地である。わが人生を束縛するものもなく、自由に奔放に楽しむ境地である。こうした酒興の湧く境地は、高位高官では望むべくもない。最高の境地こそは、好きな月の光の下に酒を煩けることである。秦の李斯はもと平民の身であったが、のちに丞相となった。しかし、趙高の庸言に遭って殺されることになるが、刑に臨んで、わが子に対して、おまえと黄狗を連れ、蒼鷹を手挟み、故郷の門を出て、狩りをしたいと思うが、それも今となってはできないと嘆いたという。「こんな李斯のような宰相の身分になるよりも、月下の酒がよい」。功名富貴に捉われずに、酒徒として自由に一生を過ごしたいと願うのが、今の李白の心境である。李白はこのとき、前途に望みを託しながら実現のロを待ち続けていたが、それも思うようにはかどらず、影々としていた気持ちを酒によって解放しようとして、かく歌い上げたとみてよい。
ここで歌は調子が変わり、自分も含めての人生に思いがはせる。
  
君不見晉朝羊公一片石,龜頭?落生莓苔。
?亦不能為之墮,心亦不能為之哀。
君見ずや晋朝の羊公の一片の石、亀頭は剥げ落ちて莓苔生ず。
涙も亦た之が為に堕つる能わず、心も亦た之が為に哀しむ能わず

羊砧は、武帝の時、こう歌い、李白の酒への社賛は一転して、時間の推移と人生の空しさの惑慨に移る。発この襄陽の長官としてこの地方を治めていたが、山水を愛し、脱山にも遊び、また酒を飲み、よく詩を作った。砧が死んでから、その徳を土地の人が慕って、碑を建てて
記念した。礁を見る人々は、往時を船んで涙を流したために、この碑を「堕涙俳」と呼んだといり。「一片石」を宋本は「一片古碑材」とする。この土台石に亀を刻して置いてあるが、それが壊れて、苔が生えている。これを見ると、時間の推移と、人生の空しさに感ずるばかりである。「『涙を堕す碑』とはいわれているが、今は悲しみも起こらず、涙も出ない。思えば、死後のことなど考えてもなんの役にも立たない。むしろ生前の自由の生き方こそたいせつではあるまいか」。そもそも李白は、神仙の境地をいつも夢みる男である。自由な、解放された境地を絶えず望んでいる男である。儒教では死後の名誉のことをいうが、それもいらない。仏教では死後の世界をいうが、それも考えない。現在の自由に生きる生き方こそ願わしいことと考えていた。
 さて、上の感慨に続くものとして、宋本では次の二句が入っている。
誰能憂彼身後事、金鳬銀鴨葬死灰。
誰か能く彼の身後の事を憂えんや、金鳬銀鴨は死灰に葬らる。
 「金鳬銀鴨」はその人の身につけていた飾りものであろうか。「それも火葬の灰に葬られ埋もれ
てしまう。死んでしまえばすべてが無に帰する。死後のことは心配してもしかたがない」。やは
り生きている現在を楽しむべきであり、「それは一銭も必要としない清風であり朗月である」。と
して、
清風朗月不用一錢買,玉山自倒非人推。
清風朗月は一銭の買うを用いず、玉山自から倒る人の推すに非ず
と歌い、自然の風景を楽しむことこそ、すべての憂いを忘れさせてくれるものであるとする。昔、晋の清談家の劉侠は、清風朗月には山水を愛する親友の許拘を思い出すといったが、李白も自然の美しさには心を奪われる。その美しさを賞で、さらに酒があって陶然とすれば最高の境地である。晋の竹林の七賢の一人柚康は、酔って倒れると、玉山の頬れるが如しと山濤がいって、そのさおやかな酔態がたたえられたが、「自分も、他人が推して倒れるのでなくて、玉山がおのずから倒れ壊れるように、さわやかに酔いつぶれたいものである」。美しい白然の景色と酒があれば、自分の人生に他に求むべきものは何もないと考える。かくて酒を人生の友と考えて意気ごんだ李白も、悠久の大江を見て、定めなき人間のはかなさに、しばし感慨にふけり、長き歌は終わる。

舒州杓,力士鐺, 李白與爾同死生。
襄王雲雨今安在,江水東流猿夜聲。
舒州の杓、力士の鐺、李白爾と死生を同にせん。
襄王の雲雨は今安くに在りや、江水東に流れ猿の夜の声あり。
 「舒州」は安徽省潜山県に当たり、唐代では酒器を産するので有名。「力士錨」の「錐」は酒の
おかんをする器。「力士」はよく分からないが、唐代予州(今の江西省南昌一帯)では、力士査と
いう愛器が作られた。そのことを指すのであろうか。「こうした酒器とともに一生を送りたい」
といって、淵を愛する気持ちを述・べつつ、最後に、この付近に関係する有名な故事を引いて、人生の空しさを再び述べ、江水の東流の尽きない自然の悠久さに感慨を催し、さらにこの付近に多い猿の鳴き声にやや感傷的な気持ちになっている。猿の鳴き声は、古来旅人の情を悲しませるものとして歌われるが、ここも夜鳴く猿の声が旅にある李白を寂しい気にさせたのであろう。「襄王雲雨」は、宋玉の「高唐の賦」や「神女の賦」に出てくる話で、楚の襄王が雲夢に遊んだとき、夢で神女と遇う。その神女は巫山の娘で、旦には朝雲となり、暮れには行雨となって現われるという。「雲雨となって現われる神女と遇った楚の襄王は、今はいない。また、その神女も現われてこない。すべて過去のものとなり、あるものは永久に東流する江水ばかりである。そして、昔変わらず哀しく猿が泣き続けている」という。
こうした人間と自然との対比が見られることは、これは李白ばかりではない。多くの詩人が感ずるところであり、彼の親友杜甫もしばしばそのことを歌う。それにしても、酒器を指して「爾と死生を同にせん」といい、澗とともに生きんとする心意気は、「泗仙」といわれた李白の面目躍如たるものがある。なお、この詩をのちの天宝年間の作とする説もある。
「?山の詩」孟浩然 与諸子登?山 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -305
「?山の詩」張九齢 登襄陽?山 李白「?山懐古」関連   Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -306
?山の詩] 陳子昂 ?山懷古 李白「?山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307
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輿黄侍御北津泛舟 孟浩然 李白「?山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -309
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過故人莊 孟浩然 李白「?山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -311







2-3 成都から一貫して、道教に傾倒


Index-U― 5-730年開元十八年30歳 
ID詩題詩文初句
730年  庚午 玄宗 開元一八年【李白三十?。安陸遭謗。春夏之交離安陸,經南陽赴長安。隱居終南山。結識崔宗之。拜見宰相張?,結識張???張?兄弟。在玉真公主別館作客。】
 730-001 酬崔五郎中(宗之)(卷十九(二)一一○二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)朔雲高天,萬
 730-002玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首 其一(卷九(一)六一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)秋坐金、張館,
 730-003玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首其二(卷九(一)頁六一二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)苦雨思白日,浮
 730-004  玉真仙人詞(卷八(一)五七七)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)玉真之仙人,時
 730-005  「北溟有巨魚」詩(古風五十九首之三十三)(卷二(一)一五一)北溟有巨魚,身
 「孤蘭生幽園」古風,五十九首之三十八(一)一六〇)孤蘭生幽園,
 730-006  烏夜啼(卷三(一)二一八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)?雲城邊烏欲棲
 730-007  安陸白兆山桃花巖寄劉侍御綰(卷十三(一)八二三)雲臥三十年,好
 730-008  上安州裴長史書(卷二六(二)一五四四)  白聞天不言
   讀諸葛武侯傳書懷贈長安崔少府叔封昆季(卷九(一)六二二)漢道昔云季,群
  長相思【寄遠】(卷三(一)二四四)長相思,在長安
  鳳凰曲(卷六(一)四四五)?女吹玉簫,吟
  鳳臺曲(卷六(一)四四六)裳聞秦帝女,傳
 擬古十二首其二(卷二四(二)一三七四)高樓入青天,下
 感遇四首其二(卷二四(二)一三九六)可嘆東籬菊,徑
   秋山寄衛尉張卿及王?君(卷十二(一)八二九)何以折相贈,白
  夜別張五(卷十五(一)九一一)吾多張公子,別
  贈裴十四(卷九(一)六二八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)朝見裴叔則,朗
   贈新平少年(卷九(一)六五○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)韓信在淮陰,少
  答長安崔少府叔封遊終南翠微寺太宗皇帝金沙泉見寄(卷十九(二)一○九九)河伯見海若,傲
   登新平樓(卷二一(二)一二二二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)去國登茲樓,懷
  秦女卷衣(卷五(一)三九七)天子居未央,妾
   


この時期に、なお李白の生活・思想に強く影響を与えたものは、隠士や道士たちとの交わりであった。道士の元丹丘とともに河南の嵩山(登封県北)に隠居したり、また、湖北の胡紫陽に道を訪ねたり、また、道士の呉笥とともに刻中(浙江省叫県付近)に隠居したりした。こうした道士、隠士との交わりの生活は、李白をして、現実の世間の生活を超脱して、それを鎗をする方向に走らせて、自由を求める気風を作り上げさせるようになった。あたかも、六朝・魏晋の清談家たちが、当時の礼俗に抵抗して、人間の本性のままに生きようとした生き方と似ている。かくて、しだいに李白の詩には、世の束縛から脱して、自由を慕い、道教にあこがれる詩が多く現われるようになってきた。

Index-U― 6-731年開元十九年31歳 
ID詩題詩文初句
 731-000731年 辛未 玄宗 開元一九年 下終南山,西遊?州?坊州。 】
 731-001下終南山過斛斯山人宿置酒(卷二十(二)一一六五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白 》?)暮從碧山下,山
 731-002贈裴十四(卷九(一)六二八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)朝見裴叔則,朗
 731-003登新平樓(卷二一(二)一二二二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)去國登茲樓,懷
 731-004贈新平少年(卷九(一)六五○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)韓信在淮陰,少
 731-005 酬坊州王司馬與閻正字對雪見贈(卷十九(二)一一一○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)遊子東南來,自
731「燕昭延郭隗」古風,五十九首之十五(卷二(一)120)燕昭延郭隗,
731「燕昭延郭隗」古風,五十九首之十六(卷二(一)123)寶劍雙蛟龍,
731「大車揚飛塵」古風,五十九首之二十四(卷二(一)138)大車揚飛塵,
731 ?客行(卷三(一)二七五)趙客縵胡纓,?
731 幽澗泉(卷四(一)二九七)拂彼白石,彈吾
731 相逢行(卷六(一)四二五)朝騎五花馬,謁
731 結襪子(卷四(一)三二三)燕南壯士?門豪
731 少年子(卷六(一)四三三)青雲少年子,挾
731少年行二首其一(卷六(一)四三五)?筑飲美酒,劍
731少年行二首其二(卷六(一)四三六)五陵年少金市東
731擬古十二首其七(卷二四(二)一三八○)世路今太行,迴

 次にあげる詩《懷仙歌(卷八(一)五七六)》は、このころ作られたものかどうかは分からない。ひたすら道教を求め、仙道を訪ねる考え方を表わす詩である。作られるにふさわしい年代とすれば、この時期に当てはめてもおかしくはない。

「懷仙歌」(仙を懐う歌) 
一鶴東飛過滄海,放心散漫知何在?
仙人浩歌望我來,應攀玉樹長相待。
堯舜之事不足驚,自餘囂囂直可輕。
巨鰲莫載三山去,我欲蓬?頂上行。
一鵜東に飛び游海を過ぎ、心を放やかにして散漫やかに何れに在るかを知らんや。
仙人は浩く歌って我を望んで来たり、応に玉樹に単りて長く相い待つなるべし。
堯舜の事は驚くに足らず、自余のものの733-003たるは直だ軽んず可し。
巨鰲は三山を戴きつつ去ること莫かれ、我は蓬莱の頂上に行かんと欲す。
 
Index-U― 7-732年開元二十年32歳 
ID詩題詩文初句
732年 壬申 玄宗 開元二0年 李白三十二?。春,由坊州回長安終南山。在長安與鬥?徒衝徒。五月,離長安,由?河東下至梁苑。回安陸。

732-001  春歸終南山松龍舊隱(卷二三(二)一三三五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)我來南山陽,事
732-002  「大車揚飛塵」詩(古風五十九首之二十四)(卷二(一)一三八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》
732-003行路難三首其一(卷三(一)二三八)金樽清酒斗十千
732-004行路難三首 其二(卷三(一)二四○)大道如青天,我
732-005行路難三首其三(卷三(一)二四二)有耳莫洗潁川水
732-006  蜀道難(卷三(一)一九九)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)01噫吁(口戲
732-007 以詩代書答元丹丘(卷十九(二)一一○六)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)青鳥海上來,今
732-008  梁園吟(卷七(一)五○○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)我浮?河去京闕
732-009  送梁公昌從信安王北征(卷十七(二)一○二四)入幕推英選,捐


これは仙境にあこがれて、そこに行きたいと願う詩であるが、当時の李白から見れば儒教のような現実主義的な生き方は性に合わなかったであろう。亮・舜のような聖人さえも無視している。理想は天上のかなたにある仙界である。まさしく夢みる男であるといえよう。ここに現われている考え方が当時のものであるとすれば、当時一般のしきたりに従って、科挙の試験をまともに受けて、官吏に登用されるというコースは、彼に望むべくもない。
 もっとも一ロに道教といっても、はなはだ複雑な思想である。がんらい不老長寿を願う民間信仰をもとにして、やがて老子・荘子の教えが加わり、唐代になると、修行を目指しての一つの教団ができあがる。修行する者を道士といい、俗世間を超越して、不老不死を目指し、仙人となることを目標としていた。唐の開元・天宝の問〈七Ξ−七罷〉にはこの道教が最も流行し、国教とさえみなすことができる状態であった。したがって、当時の人々が、道教を信奉することは、別な
一つの目的を持つことにもなってきた。それは利禄にありつく手段の一つでもあるとみなされていたようである。だから、李白の道教信奉も、考えようによっては、政治の舞台に出る一つの手段であったとも考えることができる。しかし、結局においては、道教へのあこがれは、李白をしてますます自由にふるまい、物に束縛されない奔放不鵜の人間にしたことはまちがいない。むろん生来の李白の性格も相まってのことではある。彼の初志は、あくまで政治の舞台にのり出し、官僚として天子の側近に侍り、中枢の政治に参画することであったが、今やその望みは実現されない。いってみれば、このころの李白の姿は、まったく瓢々として放浪しつつ、道を求めて歩く隠士のようでもあった。