李白の生涯(3) 志を高く蜀を離れる


1-3 蜀、成都から旅立ち、十六年にわたる「飄逸」の旅 【725年開元13年25歳〜】
Index-6T- 4-725年開元十三年25歳
ID詩題詩文初句
725-000725 乙丑 玄宗 開元一三年【遊洞庭,南窮蒼梧。夏,友人?指南卒於洞庭。初登廬山。至金陵。】 
 725-001望廬山瀑布二首其一(卷二一(二)一二三八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)西登香爐峰,南
 725-002望廬山瀑布二首其二(卷二一(二)頁一二四一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)日照香爐生紫煙
 725-003望天門山(卷二一(二)一二五五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)天門中斷楚江開
 725-004金陵城西樓月下吟(卷七(一)五二○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)金陵夜寂涼風發
 725-005楊叛兒(卷四(一)二八七)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)君歌楊叛兒,妾
 725-006長干行二首其一(卷四(一)三二六)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)妾髮初覆額,折
 725-007長干行二首其二(卷四(一)三二九)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)憶妾深閨裏,煙
 725-008巴女詞(卷二五(二)一五○二)巴水急如箭,巴
 725-009東山吟(卷七(一)五二一)攜妓東土山,悵
 725-010荊州歌(卷四(一)三○二)白帝城邊足風波


十六年にわたる「飄逸」の旅

 李白が家を離れて行遊することは蜀においてもしばしばであったがい放郷なる蜀を離れて、あの広い中国を遍薦するのは、このたびがはじめてである。
 第一回の遍歴期は、およそ十六年間の長いあいだ続く。西は江陵(湖北省)より始まり、南は蒼梧(広西省蒼梧)、東は?中(会稽)、北は?州(太原)に至る広い範囲である。湖北・湖南・江西・安徽・浙江・江南・山西・山東の各省にわたるもので、中国の東半分のおもな場所に、彼の足跡を残したことになる。この中で最も長く逗留していたのは湖北省の安陸である。
 なぜこんな広範囲の場所を長いあいだ歩いたかは、じつはよく分からない。親友の杜甫が知人を頼り食を求めて浪々と旅をしたのは、その必要があったからである。李白は何の必要があったのか、かつて『光明日報』の「文学遺産」に、麦朝枢が、李白の足跡をたどり、その逗留した所は金・銀・銅の産地に近いところから、あるいはその売買に関係して生活資金を得たのではないかという説を発表したことがあるが、当時、人々を驚かせたものである。
 なぜこうした遍歴をしたのか、これまた李白自身の詩文から、その理由をみてみよう。この遍歴の途に上った理由についてはヽ《上安州裴長史書(卷二六(二)一五四四)》安州の裴長史に上る書」によると、
白本家金陵,世為右姓。遭沮渠蒙遜之難,奔流鹹秦,因官寓家。少長江漢,
五?誦六甲,十?觀百家,軒轅以來,頗得聞矣。常經籍詩書,制作不倦,
迄於今三十春矣。以為士生則桑弧蓬矢,射乎?四方,故知大丈夫必有四方
之誌。乃仗劍去國,辭親遠遊,南窮蒼梧,東?溟海。
白は利もと金陵に家し、世よ右姓たり。沮渠蒙遜の難に遭い、咸秦に奔流す。官に因って寓家し、少くして江漢に長ず。五歳にして六甲を誦し、十歳にして百家を観る。軒轅以来頗や聞くを得たり。常に経籍の書を横たえ、制作して倦まず、今に迄るまで三十春なり。以為えらく士生まるれば桑弧と蓬矢、四方に射ると。故に大丈夫は必ず四方の志有りと知る。
  乃ち剣に仗って国を去り、親を辞して遠く遊ぶ。南のかた蒼梧を窮め、東のかた瞑海を渉る。

といっている。彼の抱く「四方の志」とは定かではないが、おそらくしかるべき官途に就いて大いに経世の才を発揮して、天下の政治に参画したいという自信に満ちたものではなかったろうか。時は開元の半ば、唐の最も隆盛な時代であり、玄宗もまたよく天下の士を選んで政治に参与することのできるようにさせた。前後の時代と比較して政治の最も充実した時代である。一般の青年たちは、前途を夢みつつ希望に胸をふくらませた時代であり、李白もまた希望に胸をふくらませて旅立った一人の青年であった。
 彼の遍歴のもう一つの理由は、当時流行の道家思想に影響されて、拘束されない生活に身をゆだね、自然のままを愛し、大道を求めるためであって、諸国遍歴こモ、その日的をかなえるものであると考えたであろう。李白は、希望に燃えて、「剣に伏って国を去り、親を辞して遠く遊ぶ」べく旅立ったのである。劉全白の「唐の故の翰林学士李君の硝記」にいっているよりに、彼の心中期するところは、当時一般の人々が求める進士の試験に及第して官吏となることではなかった。いたずらに「小官を求めず」に、一挙に大臣の位に就くことこそ目標であると夢みていたようである。

上安州裴長史書
白聞:天不言而四時行,地不語而百物生。白人焉,非天地,安得不言而知乎?
敢剖心析肝,論舉身之事,便當談笑以明其心。而粗陳其大綱,一快憤懣,惟君
侯察焉。白本家金陵,世為右姓。遭沮渠蒙遜之難,奔流鹹秦,因官寓家。少長
江漢,五?誦六甲,十?觀百家,軒轅以來,頗得聞矣。常經籍詩書,制作不
倦,迄於今三十春矣。以為士生則桑弧蓬矢,射乎?四方,故知大丈夫必有四方
之誌。乃仗劍去國,辭親遠遊,南窮蒼梧,東?溟海。見?人相如大誇雲夢之事,
雲楚有七澤,遂來觀焉。而許相公家見招,妻以孫女,便憩跡於此,至移三霜焉。
曩昔東遊維揚,不逾一年,散金三十餘萬有落魄公子,悉皆濟之。此則是白之輕
財好施也。又昔與蜀中友人?指南同遊於楚,指南死於洞庭之上,白?服慟哭,
若喪天倫。炎月伏屍,泣盡而繼之以血,行路聞者,悉皆傷心,猛虎前臨,堅守
不動。遂權殯於湖側,便之金陵。數年來觀,筋骨尚在。白雪泣持刃,躬申洗削,
裹骨徒?,負之而趨。寢興攜持,無輟身手,遂丐貸營葬於鄂城之東。故?路遙,
魂魄無主,禮以遷?,式昭朋情。此則是白存交重義也。又昔與逸人東岩子隱於
岷山之陽,白?居數年,不跡城市。養奇禽千計,呼皆就掌取食,了無驚猜。廣
漢太守聞而異之,詣廬親睹,因舉二人以有道,並不起。此則白養高忘機、不屈
之跡也。又前禮部尚書蘇公出為益州長史,白於路中投刺,待以布衣之禮。因謂
群寮曰:「此子天才英麗,下筆不休,雖風力未成,且見專車之骨。若廣之以學,
可以相如比肩也。」四海明識,且知此談。前此郡都督馬公,朝野豪?,一見盡
禮,許為奇才。因謂長史李京之曰:「諸人之文,猶山無煙霞,春無草樹。李白
之文,清雄奔放,名章俊語,絡繹間起,光明洞徹,句句動人。」此則故交元丹,
親接斯議。若蘇、馬二公愚人也,複何足陳??賢者也,白有可尚。夫唐虞之際,
於斯為盛,有婦人焉,九人而已。是知才難,不可多得。白野人也,頗工於文,
惟君侯顧之,無按劍也。伏惟君侯貴而且賢,鷹揚虎視,齒若編貝,膚如凝脂,
昭昭乎若玉山上行,朗然映人也。而高義重諾,名飛天京,四方諸侯,聞風暗許。
倚劍慷慨,氣幹虹,月費千金,日宴群客。出躍駿馬,入羅紅顏,所在之處,賓
朋成市,故詩人歌曰:「賓朋何喧喧?日夜裴公門。願得裴公之一言,不須驅馬
埒華軒。」白不知君侯何以得此聲於天壤之間?豈不由重諾好賢,謙以下士得也?
而?節改操,棲情翰林,天才超然,度越作者。屈佐?國,時惟清哉!?威雄雄,
下慴群物。白竊慕高義,已經十年,雲山間之,造謁無路。今也運會,得趨末塵,
承顏接辭,八九度矣。常欲一雪心跡,崎嶇未便。何圖謗詈忽生,?口?毀,將
欲投杼,下客震於嚴威。然自明無辜,何憂悔吝?孔子曰:「畏天命,畏大人,
畏聖人之言。」過此三者,鬼神不害。若使事得其實,罪當其身,則將浴蘭沐芳,
自屏於烹鮮之地,惟君侯死生。不然,投山竄海,轉死溝壑,豈能明目張膽、托
書自陳耶?昔王東海問犯夜者曰:「何所從來?」答曰:「從師受學,不覺日?。」
王曰:「豈可鞭撻ィ越,以立威名?」想君侯通人,必不爾也。願君侯惠以大遇,
洞開心顏,終乎前恩,再辱英?。白必能使精誠動天,長虹貫日,直度易水,不
以為寒。若赫然作威,加以大怒不許門下,逐之長途,白即膝行於前,再拜而去,
西入秦海,一觀國風,永辭君侯,?鵠舉矣。何王公大人之門不可以彈長劍乎?


1-2-2+成都を立って安陸で結婚、失意と結婚  【726年開元14年26歳】


Index-7U― 1-726年開元十四年26歳 
ID詩題詩文初句
 726-000726 丙寅 玄宗 開元一四年  【春,至廣陵。又東南遊蘇州?杭州?越州?臺州,東?溟海。然後回舟北上,復至揚州。散金三十萬。臥病。】
 726-001  金陵酒肆留別(卷十五(一)九二八)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)風吹(兩宋本、
 726-002  渡荊門送別(卷一五(一)九四一)渡遠荊門外,來
 726-003  ?鶴樓送孟浩然之廣陵(卷一五(一)九三五)故人西辭?鶴樓
 726-004  贈汪倫二首其一(卷十二(一)八二○)李白乘舟將欲行
 726-005   贈汪倫二首   其二(頁五一六)  海潮南去過
 726-006  夜下征虜亭(卷二二(二)一二六五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)船下廣陵去,月
 726-007  蘇臺覽古(卷二二(二)一二九一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)舊苑荒臺楊柳新
 726-008  烏棲曲(卷三(一)二二○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)姑蘇臺上烏棲時
 726-009  越中覽古(卷二二(二)一二九二)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)越王句踐破?歸
 726-010  淮南臥病書懷寄蜀中趙?君?(卷一三(一)八二五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)?會一浮雲
 726-011  月夜金陵懷古(卷三○(二)一六九六詩文補遺)蒼蒼金陵月,空
 726-012  示金陵子(卷二五(二)一五○○)金陵城東誰家子
 726-013出妓金陵子呈盧六四首其一(卷二五(二)一五○一)安石東山三十春
 726-014出妓金陵子呈盧六四首其二(卷二五(二)一五○一)南國新豐酒,東
 726-015出妓金陵子呈盧六四首其三(卷二五(二)一五○二)東道煙霞主,西
 726-016出妓金陵子呈盧六四首其四(卷二五(二)一五○二)小妓金陵歌楚聲
 726-017  白毫子歌(卷七(一)四九九)淮南小山白毫子
 726-018  江上寄巴東故人(卷一四(一)八七八)漢水波浪遠;巫
 726-019  別東林寺僧(卷一五(一)九三○)東林送客處,月
 726-020  金陵白楊十字巷(卷二二(二)一三一○)白楊十字巷,北
 726-021 金陵新亭(卷三○(二)一六九七詩文補遺)金陵風景好,豪
 726-022  洗?亭(卷二五(二)一四四二)白道向姑熟,洪
 726-023  秋日登揚州西靈塔(卷二一(二)一二二四)寶塔?蒼蒼,登
 726-024  秋夜板橋浦汎月獨酌懷謝?(卷二二(二)一三○二)天上何所有?迢
 726-025  寄弄月溪?山人(卷一三(一)八二七)嘗聞?コ公,家
 726-026  望廬山五老峰(卷二一(二)一二四二)廬山東南五老峰
 726-027  登瓦官閣(卷二一(二)一二二九)晨登瓦官閣,極
 726-028  鼓吹入朝曲(卷五(一)三九四)金陵控海浦,?
 726-029  廣陵贈別(卷一五(一)九一九)玉瓶沽美酒,數
 726-030江詞六首其一(卷七(一)頁五一五)人道江好,儂
 726-031江詞六首其二(卷七(一)頁五一六)海潮南去過尋陽
 726-032江詞六首其三(卷七(一)頁五一七)江西望阻西秦
 726-033江詞六首其四(卷七(一)頁五一八)海神來過惡風迴
 726-034江詞六首其五(卷七(一)頁五一九)江館前津吏迎
 726-035江詞六首其六(卷七(一)頁五一九)月暈天風霧不開
 726-036  題金陵王處士水亭(卷二五(二)一四四四)王子?玄言,賢
 

    早發白帝城(卷二二(二)一二八○)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)は、後年、夜郎に流され恩赦にあって引き返すときの作であるが、三峡を下る様子がよくわかるので見てみる。

  卷181_13 《早發白帝城(一作白帝下江陵)》李白
  朝辭白帝彩雲間,千里江陵一日還。
  兩岸猿聲啼不盡,輕舟已過萬重山。
朝に辞す白帝の彩雲の間を、千里の江陵一日にして還る。
両岸の猿声啼いて尽きざるうちに、軽舟は已に過ぐ万重の山を。

 李白は眠江から揚子江を下ってゆく。さらに下ると奉節県に白帝城が見える。これから三峡の険を経て、湖北における大都市の一つ江陵に着く。このときの作とする説もあるが、恐らく後年のものであろう、人口に謄灸されている「早に白帝城を発つ」がある。
「朝早く朝日に色どられた白帝城のあたりを出発する」と、三峡のせばまった急流を矢のように走り、この辺、猿声の悲しい声がすると古来から詩に歌おれているが、「その猿声の耳に残っているうちに、両岸の山々の間を過ぎて、はや千里のかなたの江陵に着いた」という。軽快のリズムを持つ詩である。彼の前途に対する希望に燃えた気待ちを象徴するかのような詩でもある。もっともこの詩の「還」を、あくまで引き返す意だとして、この作は後年、夜郎に流され恩赦にあって引き返すときの作とする説もある。
 ときに李白は、「小官を求めず、当世の務めを以て自ら負む」という気概を持ちつつ、科挙の試験を経て官吏となる平凡な通常の道を選ばずに、天下を治める才能のあることを頼み、一挙に政治の中枢に訟画しようという大望を抱いていち耐爪が長史の鮒繋ぷ与えた書にヽ「三十にして文章を成し、卿相に歴抵らん。長七尺に満たずとも、心は万夫より雄れたり」とはこのときの希望に燃えて、末は宰相、大臣かと夢みる心意気を示したものである。そして、「己れを屈げず、人に干めない」自信に清ちた態度を示している。
李白は揚子江を下り、やがて揚州に姿を現わす。ここは今の南京の下流に当たり、唐代では殷
盛を極めた商粟都市であり、重要な港でもあった。わが遺唐使もここに着いて上陸し、以後、運河をつたい北上し、やがて陸路長安の都に入ったものである。
 一年たらずのあいだに、三十余万金という大金を【落魄の公子】を助けるために与えるという任侠の行為をしたり、また洞庭湖の辺りでは四川時代の親友呉指南の死にあって慟哭し、またその埋葬もするという、朋友に対する友情の厚さを見せている。また、益州の刺史の蘇頚や、安陸郡の都督の馬公、その他の地方官吏と交わっているが、彼の傲慢奔放ともいうべき性格は、必ずしも当時の人々に認められるところとはならなかった。



Index-8U― 2-727年開元十五年27歳 
ID詩題詩文初句
 727-000727 丁卯 玄宗 開元一五年【沿長江西上,觀雲夢,寓安州北壽山。北遊汝海?襄州,結識孟浩然。回安陸,沖撞李長史車馬。與元丹丘一起受馬都督和李長史接見。與故相許圉師的孫女結婚。】
727-001  贈?(卷二五(二)一四九五)三百六十日,日
727-002  代壽山答孟少府移文書(卷二六(二)一五二一)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)淮南小壽山謹使東峰
727-003  上安州李長史書(卷二六(二)一五二七)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)  白,?崎?
  靜夜思(卷六(一)四四三)床前看月光,疑
 山中問答(卷十九(二)一○九五)問余何意棲碧山
   ?山懷古(卷二二(二)一二九六)訪古登?首,憑
  南軒松(卷二四(二)一四一九)南軒有孤松,。

彼は意のごとくならない焦燥にかられ、やるせない気持ちをもって湖北省の安陸にやって来た。安陸は、この地方の中心地であり、かつては陶淵明の曾祖父に当たる晋の名将陶侃の築いた故城もあった所である。このときの気持ちを彼自身、「白の孤剣誰にか托せん。悲歌して自から憐れむ。栖惶しみに迫られ、席は媛むるに暇あらず。絶かなる国に寄せて何をか仰がん。南に徒るも従るものなく、北に游ぶも路を失う」(安州の李長史に上る書)といっている。
 ここにはだれも頼るものなく、各地を放浪して歩き、「悲歌」しながらみずからを慰めている李白の孤独の姿が目に見えるようである。かかる失意の気持ちで安陸に来て、かつての宰相であった許困師の孫娘と縁あって結婚することとなった。彼の二十六、七歳のころであろう。
 彼の妻の詳しいことは分からぬが、比較的才情のあるおとなしい人のようだった。このころの作であろうか、妻に贈った詩に 《 贈?(卷二五(二)一四九五)内に贈る》がある。
  卷184_52 《贈?》李白
  三百六十日,日日醉如泥。
雖為李白婦,何異太常妻。
三百六十日、日々酔うて泥の如し。
李白の婦と為ると雖ども、何ぞ太常の妻に異ならんや。

後漢の周沢は、太常の役となった。これは宗廟の祭りをつかさどる役である。彼は毎日みそぎをして祭りをつかさどったが、あるとき病気になってしまった。妻が見舞いに訪ねると、物忌みが犯されてしまったと怒ったという。当時の人は、世の中でいちばんつまらぬものは太常の妻であって、一年のうち三五九日は、みそぎをして神に仕えているが、神に仕えない一日は、酔いつぶれていて泥のようだといった。「泥」は泥虫といって水があれば活きるし、なければ泥のようになってしまう。この詩はむろん妻に対してからかった詩であろう。一杯飲んでいるとき、すねている妻をからかって、その妻を肴にして飲んでいる李白が想像きれる。しかし、その背後には、妻を思いやる愛情が感ゼられる。この許氏の妻は、開元二十八年ごろ、李白の四十歳ごろに亡くなっていると思われるが、確かなことは分からない。
 彼は安陸を中心に約十年間各地を遍歴し、安陸では比較的安定した生活を送ったらしい。おそらく結婚したためであろう。後年の彼のことばによれば、ここにおける生活は、希望がかなえられた生活ではなく、「栖隠」であり、意に満たない「聡陀」の生活であったといっているが、それでも十年の長きにわたってこの地方に滞在していたのは、やはり落ち着いておられる環境にあったのであろう。
 安陸を中心に各地を遊覧して歩くそのころは、李白自身は意に満たない生活であったかもしれないが、詩の面においては相当の力量を持つようになってきて、彼の詩がようやく円熟してきた時代のごとく思われる。前の郡の都督、馬公(某)たちが李白の詩文をほめて、「李白の文は、清雄にして奔放なり。名章や俊語は、絡輝き間がわる起こる。光明は洞徹き、句句は人を動かす」はじめての旅立ち
前此郡都督馬公,朝野豪?,一見盡
禮,許為奇才。因謂長史李京之曰:「諸人之文,猶山無煙霞,春無草樹。李白
之文,清雄奔放,名章俊語,絡繹間起,光明洞徹,句句動人。」(前に此の郡都督の馬公は,朝野豪?,一見て禮を盡し,奇才を為すを許す。因謂長史李京之曰:「諸人之文,猶山無煙霞,春無草樹。李白の文は,清雄にして奔放なり,名章や俊語は,絡繹して間起し,光明は洞徹して,句句人を動かす。」) (「安州の裴長史に上る書」)といって、「奇才」であるとして、長官に推薦したという。李白が記録したものであるから、必ずしもそのとおりではないにしても、とにかく、詩は人から認められるほどに巧みになっていたことは、まちがいない。ここを中心に各地を遍歴し、珍しい風景に接して、新しい人生経験をしたことが、彼の詩風を成熟させたものといえよう。
じようようか
Index-U― 3-728年開元十六年28歳 
ID詩題詩文初句
 728-000728  戊辰 玄宗 開元一六年【春至江夏,改葬?指南。暮春,送孟浩然之廣。回安陸,寓居白兆山。】
 728-001  ?鶴樓送孟浩然之廣陵(卷一五(一)九三五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)故人西辭?鶴樓
 728-002  送蔡山人(卷一七(二)一○三九)我本不棄世,世
 728-003  早春於江夏送蔡十還家雲夢序(卷二七(二)一五六九) 吾觀蔡侯奇人
 728-004  送戴十五歸衡岳序(卷二七(二)一五七三)  白上探玄古
   「碧荷生幽泉」詩(古風五十九首之二十六)碧荷生幽泉,朝
 「燕趙有秀色」古風,五十九首之二十七燕趙有秀色,
 「青春流驚湍」古風,五十九首之五十二青春流驚湍,
  秋思(卷六(一)四四七)春陽如昨日,
   贈僧行融(卷十二(一)八○七)梁有湯惠休,常
   
 感興八首其六(卷二四(二)一三八八)西國有美女,結