李白(2) 家系と生い立ち


1-2 家系と生い立ち
Index-1-715年開元三年15歳
ID詩題詩文初句
715-000715  乙卯 玄宗 開元三年【好神仙。明堂賦約作於此年。】
715-001 明堂賦(卷一(一)二九)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)在天皇,告成岱
  題竇?山(卷三○(二)一七二五詩文補遺)樵夫與耕者,
  望夫石(卷三○(二)一七○四詩文補遺)彷彿古容儀,
  對雨(卷三○(二)一七○三詩文補遺)卷簾聊舉目,
  曉晴(卷三○(二)一七○四詩文補遺)野涼疏雨歇,
  初月(卷三○(二)一七○二詩文補遺)玉蟾離海上,
  雨後望月(卷三○(二)一七○三詩文補遺)四郊陰靄散,
Index-2T- 1-718年開元六年18歳
ID詩題詩文初句
718-000718 戊午 玄宗 開元六【在大匡山跟趙?學王霸之道?縱之術。愛好劍術,仗義任?。】
718-001訪戴天山道士不遇(卷二三(二)一三五五)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)水聲中,桃花帶
718-002    李白.贈孟浩然 巻九 (一)593 吾愛孟夫子,
  贈江油尉(卷三○(二)一七二五詩文補遺)嵐光深院裏,傍
  尋雍尊師隱居(卷二三(二)一三五○)群峭碧摩天,逍



1-2-1. 家系と生い立ち

中国の詩歌史上、最も多彩な時期は唐代である。世にいう李白・杜甫・韓愈・白居易は、その唐詩の代表的詩人といっても異論はなかろう。なかんずく李白・杜甫は一段と光彩を放っており、当代のみならず、後世の人々にまで長く愛された詩人である。かつまた、後世の文学に多大の影響を与えている詩人でもある。わが国でも今目なお多くの人々が李白・杜甫を愛読している。いったい、李白の何がわれわれをひきつけるのか、何が愛されるところであるのか、その生涯をたどり、その詩を味わいながら、しばらく李白と手を取り合い、李白の心の琴線に触れつつ、歩みを共にして、その跡をたどってみよう。
 李白は、その生涯をほとんど旅人として送っている。その性格と行動は、賀知章が、かつて李白に会ったとき、嘆じて「子は滴仙人なり」、つまり、天上から流されてきた仙人である(『唐書』文芸伝・李白)といったことばにふさわしいものであった。「諦仙人」といわれるに似つかわしいかのごとく、じつは彼の出生についても漠としていて、はなはだ明らかではない。
 正史としての『旧唐書』『新唐書』の「李白伝」をはじめとして、李白の生涯に関して、もろもろの多くの資料があるが、彼の素姓は明らかではないし、李白自身も、その出生を語りたがらぬごとくであった。ただ、もろもろの資料を総合してみるとき、李白はいわゆる西域なる異民族の土地に生まれた人である。西域は、いま脚光を浴びているシルクロードのタクラマカン砂漠を含む西方の広範囲の地方を指す。ここに生まれ、程なくして中国四川省に移住してきた人であるということがほぼ推察される。したがって、こうした地に生まれたことから、李白は、はたして中国人であるのか、いやトルコ人であるのか、またイラソ人であるのかの民族人種の問題が生じてくるのは当然のことである。
 かつてこの問題については、近人の陳寅悋をはじめ三、四の学者が論じて、一時期学界を賑わしたことがあり、近くは麦朝枢が、「李白の姓氏籍貫種族の問題に関して」(『文学遺産』第六輯)なる論文を発表している。しかし、これらを総合してみても、興味ある問題ではあるが、今日ではもはや明らかにしようがない。
 なお、郭沫若が先年発表した『李白と杜甫』(人民出版社、一九七一年)では、かつて陳寅恪の発表した中国人ではないといり説(「李太白氏族の疑問」『清華学報』一〇巻二期)を否定して、李白は中国人であり、西域に移住した者の子孫で、則天武后の長安元年〈701〉に、今の中央アジアのスイーアブに、商人の子として生まれた人であるとみる。しかし、これとても推察によるところがあり、全面的に信用するわけにはゆかない。
 李白には、出生の秘密といったものがあるかどうか分からないが、まずは彼自身の口からどう語られているか聞いてみる必要があろう。しぼらく李白のことばに耳を煩けてみよう。
 李白が自身の家系について語っているのは、「張相鎬に贈る」詩である。張鏑は玄宗に従って蜀に逃れた人物であり、時に侍御史であった。「相」というのは、そのためである。
  卷170_23 《贈張相鎬二首(時逃難在宿松山作。蕭士贇雲下八首偽)》李白
  神器難竊弄,天狼窺紫宸。六龍遷白日,四海暗胡塵。
  昊穹降元宰,君子方經綸。澹然養浩氣,?起持大鈞。
  秀骨象山嶽,英謀合鬼神。佐漢解鴻門,生唐為後身。
  擁旄秉金鉞,伐鼓乘朱輪。虎將如雷霆,總戎向東巡。
  諸侯拜馬首,猛士騎鯨鱗。澤被魚鳥ス,令行草木春。
  聖智不失時,建功及良辰。醜虜安足紀,可貽幗與巾。
  倒瀉溟海珠,盡為入幕珍。馮異獻赤伏,ケ生倏來臻。
  庶同昆陽舉,再睹漢儀新。昔為管將鮑,中奔?隔秦。
  一生欲報主,百代思榮親。其事竟不就,哀哉難重陳。
  臥病宿松山,蒼茫空四鄰。風雲激壯志,枯槁驚常倫。
  聞君自天來,目張氣益振。亞夫得劇孟,敵國空無人。
  捫虱對桓公,願得論悲辛。大塊方噫氣,何辭鼓青蘋.
  斯言?不合,歸老漢江濱。
  本家隴西人,先為漢邊將。功略蓋天地,名飛青雲上。
  苦戰竟不侯,富年頗惆悵。世傳??勇,氣激金風壯。
  英烈遺厥孫,百代神猶王。十五觀奇書,作賦?相如。
  龍顏惠殊寵,麟閣憑天居。?途未雲已,??遭讒毀。
  想像晉末時,崩騰胡塵起。衣冠陷鋒鏑,戎虜盈朝市。
  石勒窺神州,劉聰劫天子。撫劍夜吟嘯,雄心日千里。
  誓欲斬鯨鯢,澄清洛陽水。六合灑霖雨,萬物無凋枯。
  我揮一杯水,自笑何區區。因人恥成事,貴欲決良圖。
  滅虜不言功,飄然陟蓬壺。惟有安期?,留之滄海隅。
詩の冒頭に、「本もと隴西に家する人、先は漢辺の将と為る。功略は天地を蓋い、名は青雲の上に飛ぶ」といっている。本籍は隴西(甘粛省天水県)の出身であるという。ここで「隴西の人」と大まかな表現をしているが、もう少し細かに害いてある記録がある。その最も古い記録は、李白が最後に身を寄せて、そこで亡くなった一族の李陽冰が書いたものである。率白は当塗県(安徴省)の令である一族李陽冰の宅に、病いのため身を寄せ、最後に詩文稿を授け、李陽冰に序を書いてもらった。この序は李陽冰の考えによって書かれたものではなく、おそらく李白の考えが多分に入っているものと思われる。それによると。
  李白、宇は太白。剛西成紀(甘粛省天水県)の人、涼の武昭王混の九世の孫。
 李白死後五十五年ほどたって害かれた茫伝正の「唐の左拾遺翰林学士李公新墓碑」も同じである。李混といえば、漢の飛将軍といわれた李広十六世の孫である。この点は、先の「本もと隋西に家する人、先は漢辺の将とがる」とまったく同じである。ただ、この本籍から次に移住した地について、『草堂集』序には、
中葉にして罪に非ずして、条支に滴居す……神竜の始め、逃れて蜀に帰る。復た李樹を指して伯陽を生む。驚姜の夕、長庚夢に入る。故に生まれて白と名づけ、太白を以って之に宇す。世に称す、太白の精、之を得たりと。
苗伝正の「新墓碑」でも、ほぼ同じく、先の「其の先は階西'成紀の人」なる記述に続いて、
絶嗣の家、譜謀を求め難し。公の孫女、箱簑中に捜し、公の亡子伯禽の手疏十数行を得たり。
紙は壊れ字は訣き、詳備する能わず。約して之を計うるに、涼の武昭王九代の孫あり。隋末多難にして、二房砕葉に蹴われ、流離散落し、隠れて姓名を易う。故に国朝より以来、属籍に編せらる。神竜の始め、潜かに広漢に還り、僑に因って郡の人と為る。

 この記述は、李陽冰の序よりやや詳しい。ただ、李陽冰のいう「条支」は、苗伝正のいう「砕葉」と呼称、が異なるが、じつは「砕葉」は「条支」国に属する地名である、郭沫若の説によると、キルギスのスイーアブであるという。なぜここに移住したかは、罹伝正によると、隋末の混乱のため、一族が逃れ隠れて、姓名も変えて住んでいたという。それが神竜の初め、ひそかに広漢に帰ってきたという。神竜の初めとは、中宗の時、705年であり、広漢とは、今も四川の成都県にあるが、その辺であろう。隋代の全国の擾乱は、史上にも名高いが、それを避けるために、ずいぶん西方の遠い所まで来たものである。しかも、四川に帰っても、父は僑(仮住まい)ということで、その土地に住み、名も客とつけたという。いかにも世間をはばかるようなやり方である。もっとも、この苗伝正の記録は、李白没後五十五年に書いた墓碑であり、すでにこのとき、李白の家は絶えて家系が分からない。やっと孫女を探し当て、その箱簑の中から、李白の子伯奥の書いた十数行の記録を見つけ出した。この記録は紙が破れ字もはっきりしなくて、詳しいことが分からないが、それによって書いたのが「涼の武昭王九代の孫云云」の記録であるという。子の伯禽が残したものとすれば、父李白からの聞き書きである。李陽冰の序にしても、この墓碑にしても、要するに李白の口から出たものである。ただ、これを見ても、砕葉に移住した様子は詳しく語られていない。やはり不思議のべールに包まれた人物である。

 ついで、漢の世に飛将軍といわれ、匈奴を恐れさせた李広をその先祖とするとしているが、これはおそらく門閥を尊ぶ当時にあっては、時の宰相に自薦するためのものであって、偽ってわが家門を尊くしたものであるとも想像される。こうした家門を偽ることは、李白のみならず、唐の王室自身さえ、鮮卑族の出身であるのを隴西の李氏の出身であると偽っているといわれるほどであるから、李白だけを責めるわけにはゆかない。
 かく李白の出生に関しては、はなはだ不明僚である以上、出生地・出生年月など、今日ではそれを明らかにしようがない。したがって、比較的信用するに足るといわれている清の王琉の年譜によってしばらく話を進めていくことにしよう。
 李白は、唐の長安(則天武后)元年〈701〉に生まれたことになっている。このとき長庚(金星、太自星)を夢みたところ生まれたので、白と名づけ、太白と字することとなったという。また、彼はのちにみずから青蓮居士、酒仙翁とも号していた。
 四歳までは、当時、西域といわれる砕葉で過ごしており、五歳のとき、はじめて父とともに四川省に移住した。時に中宗の神竜元年〈705〉である。これより二十五歳まで、この四川に住むことになる。
 したがって、李白を蜀(四川省)の人と呼ぶことはけっしてまちがってはいない。李白自身も蜀を郷里として意識していた。そして、その住まいは紫雲山のほとりであり、四川省綿陽県(当時は彰〔昌〕明県)境にあって、ここに清廉郷(青蓮郷ともいう)がある。李白が青蓮居士と号し
たのも、郷里の名をとったものである。
 四川時代の詩ははなはだ少なく、彼の生活を詳しく知る由もないが、家庭は相当に富裕であったらしい。
 彼の父は李客といった。そして後年、李白が維揚(揚州)に遊んだとき、一年足らずのりちに、落塊公子のために、三十余万の金を費やした(「安州の裴長史に上る書」)というところを見ると、相当の金を李白が持っていたと考えられる。つまり、それは彼の父に金があったことになる。とすると、父親は富裕の商人であったかもしれぬ。こうした商人は、中央アジアと長安の経済交流の盛んな情勢に乗じて、長安にやって来る。また、長安と蜀との経済交流の行なわれた当時、長安から蜀にやって米たものと思われる。李白の父はその一人であろう。
 十五歳ごろまではもっぱら教養として読書で過ごしていた。五歳のころ六甲を誦し、十歳のころ百家を虻たとみずからいっている(「安州の装長史に上る書」)。「六甲」とは十干十二支で表わす組み合わせを覚えたということであろう。また、同郷の漢の司馬相如の「子虚の賦」を暗誦もした(「秋、敬亭山に於いて、倅僅の廬山に遊ぶを送るの序」)。李白の口からは経書をとくに学んだとはいっていない、が、これは教養として当然学んだであろう。そのほかに諸子百家に及んでいることは、彼の教養を広く豊かなものにして、彼の想像力をふくらませる助けに大いになっていること、むろんである。