(1)李白詩の魅力とその生涯



李白の生涯 (1)生誕から朝廷を追放される



李白の生涯とその作品

李白の生涯、家系と生い立ち,飄逸の旅,朝廷に上る,寂しき旅立ち,永王?賊軍となる,晩年


(1)生誕から朝廷を追放される744年天寶3年春まで 李白44歳

1 李白の人生と詩の魅力について
1-1 第一の魅力
1-2 第二の魅力
1-3 第三の魅力
1-4 第四の魅力
1-5 第五の魅力
1-6 第六の魅力

2 家系と生い立ち
・15歳から18歳のころの詩
2-1. 家系と生い立ち
・20歳から24歳の頃の詩
2-2. 任侠と隠遁

3 蜀、成都から旅立ち、十六年にわたる「飄逸」の旅 【725年開元13年25歳〜】
・25歳の頃の詩
3-1 十六年にわたる「飄逸」の旅のはじまり
・26歳から30歳のころの詩
3-2 成都を立って安陸で結婚、失意と結婚  【726年開元14年26歳】
  3-3 山簡、酒‐−襄陽歌
・34歳までの詩
3-4 成都から一貫して、道教に傾倒
・35歳の頃の詩
3-5 洛陽・太原・斉魯に遊ぶ 「竹渓の六逸」
・36歳から41歳までの詩
3-6 戦争と遊猟詞
3-7 泰山に遊ぶ               
・42歳の詩。

4 朝廷に上る   65
3-1 上安子との別れ     −66
3-2 花の都長安i翰林院供奉―−73
3-3 清平調詞        −79
3-4 酒中のハ仙1賀知章   −84
3-5 阿倍仲麻呂を知る    −88
3-6 憂愁を瞬らさんとして ー−92
3-7 玄宗をとりまく暗雲    96
3-8 謝 言          101
3-9 さらば長安        109

5 寂しき旅立ち         −113
4-1 冷たい世の風−山
4-2 酒、酒、酒       −120
4-3 杜甫との出会い     −147
4-4 孤 独          154
4-5 愛児を思う       −158
4-6 江南の名勝を訪ねて   −163
4-7 『謝眺を慕いて     −172
4-8 安禄山の謀反
4-9 廬山に住む       −191

6 永王?のもとで、賊軍となる   197
5-1 永王?の幕下に
 5-2 尋陽の獄中        −
 5-3 夜郎に流される      −212
 5-4 埼れの身−ふ

7 晩年の長江下流域で      −221
6-1 昔の覇気いずこ−222
6-2 老いの悲しみ−232
6-3 族に身を寄せる−242
6-4 臨終の歌丿六十二歳−247

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T  李白の人生と詩の魅力について

1-1 第一の魅力
 李白のわれわれをひきつける一つの大きな点は、放浪に始まり放浪に終わるその生涯の生き方である。そこには最後までじめじめした暗さがない。現実の生活の苦しさもほとんど口にしないし、政治の不合理も語らない。仙人のように俗界を低く見、時には淵を飲んで気宇壮大となり、時には妓女を携えた宴会で談笑し、時には月を眺めて自然界に融けこんでいる。晩年には多少の寂しさは見られるけれども、とにかく一生を陽気に明るく送った人である。しかし、李白は生活の糧を得ることには、心を痛めることが多かった。しかし、それを詩に現わさない。杜甫は生活苦を歌い、政治・制度の不合埋を歌い、憤激して悲憤の涙を流すことが、自分の運命であるかのごとく、また、モのことを歌うことが、自分に与えられた便命であるかのごとく思った人であった。
 李白は何を使命としていたか。それはおそらく政治の中枢に参与して、人民のためによき政治をする側に居てその力を発揮させたかったのであろう。長安を追われて梁園で歌った「東山に高臥して時に起来ち、蒼生を済わんと欲すること米だ晩しとすべからず」とは、最後まで心の奥に潜んでいた気概ではなかったろうか。さればこそ、放浪中にもかかわらず安禄山の乱の討伐に参加しようとしたのでもあろう。
 とはいえ、李白は仙界を夢みつつ、世俗の現実には無関心のごとく酒を飲み、自然の美しさを楽しんでいることが多かった。南宋の嚴羽は『滄浪詩話』の中で、杜甫と比較して、李白の詩風を指摘している。すなわち、李白・杜甫両人の優劣はきめられない。それぞれにそれぞれの特色があるとして、
「子美不能為太白之飄逸。太白不能為子美之?鬱。太白、《夢遊天姥吟》《?離?》等、子美不能道。子美《北征》《兵車行》《垂老?》等、太白不能作。」
子美(杜甫の宇)は太白(李日の宇)の瓢逸たる能わず。太白は子美の沈僻たる能わず。太白の「夢に万がに遊ぶの岨」「遠く別離す」等は、子美はいう能わず。子美の「北征」「兵車行」「垂老別」等は、太白は作る能わず。
といっている。厳羽のいう評語の[瓢逸]とか「沈影」の意味するところは、じつは十分に分かりかねるが、「沈僻」はしばらく置き、「瓢逸」について考えてみよう。
 その引用する  《夢遊天姥吟留別》(卷十五(一)八九八)夢に天姥に遊ぶの吟」は、その題の示すように、浙江省天台県の西北にあって、天台山と相対する天姥山に遊ぶことを夢にみた形式で歌ったもので、李白自身は、このとき、北方の山東省滋陽県あたりを放浪しており、これから南遊するに当たっての作である。したがって、この時まで天姥山にはまったく行ったこともない。これは想像の文学であり虚構の文学である。この詩の中には、夢の中で一挙に南の紹興辺まで翔んで行き、やがて天姥山に登り、その仙境のすばらしさを美しく歌いあげている。「青冥は浩蕩がり底を見ず、口月は金銀の台を照輝かす。霓を衣と為し風を馬と為し、雲の君は紛紛として来たり下る。虎は認を敦し鸞は車を回らし、仙の人は飛なること麻の如し」と夢のような仙人の世界を歌って、作者自身もいつのまにか仙境に入って夢幻の世界に、心もうつろになっているようであるし、読者もまた夢幻の世界に思わず引きこまれてしまう。
 「遠く別離す」も、想像の文学であり、虚構の文学である。舜の死を追って指水に溺死した蛾皇・女英の二妃の悲しみを歌っている。これとても現実の事態を歌ったものではなく、はるか古えの堯・舜時代の伝説の世界に作者は入りこんで夢幻の世界に遊び、読者もその夢のような世界に思わず引きこまれてしまう。
 一方、杜甫の「北征」は、至徳二年〈七五七〉に鳳翔から?州にいる家族のもとに帰った道中記のような長篇の詩であって、杜甫の現実に体験した苫しみの道中、戦乱のあとの惨憺たる風景、家族との悲喜こもごもの再会、時局に対する批判などを歌ったものである。端的にいえば、杜甫は、現実に経験した事態を忠実に惑ずるがままに歌っているといえよう。彼のその他の詩も同様であるといえよう。
 厳羽が例に挙げた詩を比較してみれば、その特色の差異はおのずから分かるけれども、しからば「飄逸」とは何かといえば、的確に指摘することはできない。ただ、杜甫のように現実の事態を着実に歌うのではなくて、常識の世界を超えて、夢幻の世界に道ぶような表現をすることをいったものであることはほぼ想像される。
 ただ「瓢逸」を厳羽が、その意味だけに限ったかどうかは断定できない。しかし、さらに拡大して考えてみることも可能である。仙境のような夢幻の世界を描く詩は李白には確かに多い。
しかしまた、表現白体が常識を超えると思われるほどの誇張的表現が多い。また、李白の一生の行動自体も、当時の一般の文人の常識を超える。蜀から揚子江を下り、各地を遍歴する。これ自体がそもそも当時の文人の志すところではない。また、宮中に入っての酔態も普通の官原のなしりるところではない。また、追放以後の各地の遍歴も、その真の理由はじつは定かではないが、常人とは著しく異なる。親友の杜甫が家族を連れて生活苫にあえぎながら職を求めて放浪するのとはヽあまりにちがいすぎる。こうした当時の常識の線を超えた行動も、「瓢逸」とみなしてもよかろう。
 この書物で「瓢逸詩人」と称するのは、以上の意味をくるめて指しているので、敵羽の指すと思われるそのものからあるいは外れるかもしれない。
 李白の魅力の第一は、右のような意味での一瓢逸」にあるといえよう。


1-2 第二の魅力
 第二の魅力は、自然を美しく描写していることである。美しく自然を歌うことは、すでに六朝より始まり、唐代に伝統となって定着しているが、李白はことに自然を描くことを得意とする。上述の「夢に天妬に遊ぶの吟」のような空想性は、現実に見た自然を美麗に壮大にしあげてしまう。まことに「仙才」といわれる人にふさわしい。李白の描く自然は、六朝人のような限られた隠遁の世界ではないし、といって陶淵明のような田園生活の世界でもないし、また同時代の王維のような狭い山水の世界でもない。もっと広く自然を歌っている。
 ところで李白の詩は、概していえば平易の言語をもって表現している。のちの人の評に、李白の詩は、俗人に喜ばれやすいと、やや冷評を与えているが、なるほど杜甫が『文選』の言語をたえず駆使していたのと異なって、やさしく人に分かるように努力している。分かりやすい表現で人に感動を与えることに気を遺っているようである。故事の引用はむろん多いが、無理のない使い方をしている。「古風」五十九首における、詩に対する見解を見るに、六朝の斉・梁に見られる形式美を排することを主張する。そして、格律・対偶・殷飾などの束縛から脱しようと考えている詩の革新家でもある。その主張の現われが平易の表現の詩に趨らせたのであろう。


1-3 第三の魅力
第三の魅力である。ただ彼は「古風」という詩を作るがごとく、詩の精神としては、『詩経』や『楚辞』のような「いにしえぶり」の精神に反り、漢・魏の詩に現われた風骨の精神に戻れという復古主義者でもあって、「大雅久しく作られず、吾衰えなば竟に誰か陳べん」(その一)と慨嘆する。この点では珍しくも初唐の陳子昂の古詩復帰論の継承者でもある。
 李白は各地を遍歴し、あまたの諸名勝を尋ね、優れた「天才」ともいわれている詩才によって、各地の諸名勝は、壮大にしかも美麗に歌い上げられて、読者もそこに共に遊ぶかのごとき思いをさせられる。「廬山の湯布を望む」(一九三。ヘージ参照)のごときは、いずれの句をとっても、
平易で容易に理解できる表現である。しかも、思いもよらぬ新鮮の表現である。これは常識を超えた空想性をもち、想像力の豊かさを示すものである。かくて読者は眼前に壮大な美しい廬山があり、その九天より落つるかと思われる三千尺の洋布を見る思いがして、率白の詩に吸いこまれてしまう。


1-4 第四の魅力
 第四の魅力は、右にすでに少しく触れたことでもあるが、ごく当たりまえのテーマを、やさしく簡単な表現で描写することである。蘇東披は、「李白の詩は、飄逸で浮世離れがしているが、平易であるという欠点がある」と評しているが、これが欠点であるかどうかは考え方のちがいで、とにかく李白詩の特色でもあって、人を魅きつけるところである。たとえば《靜夜思(卷六(一)四四三)》のごときは、
昧前看月光
疑是地上霜
皐頭望山月
低頭思故郷
床前に月光を看る
疑うらくは是れ地上の霜か
頭を挙げて山月を望み
頭を低れて故郷を思ら
 一読してみると、散文的でもあり、口語的調子でもある。しかも「故郷を思う」情が自然ににじみ出ている。平易な表現というものは、屈折のない自然の感情をそのまま出していることにもなる。《 山中與幽人對酌(卷二三(二)一三四八)》では、
雨人對酌山花開
一杯一杯復一杯
我酔欲眠卿且去
明朝有意抱琴末
両人対酌すれば山花開く
一杯一杯復た一杯
収酔うて眠らんと欲す卿且く去れ
明朝意有らば琴を抱いて来たれ
 これもなんの説明も要しない詩であり、読者の胸にそのまましみ入って感銘を与える詩であ
る。「早に白帝城を発つ」詩(ニハページ参照)にしても、三峡の険難を想像させるために、平易
な表現をとりつつ、新鮮な着想をもって「千里の江陵一日にして還る」と歌って、読者はその誇
張的表現でかえって、険難を想像することができる。

1-5 第五の魅力
 右に挙げた誇張的表現は、じつは李白詩の一つの特色で、われわれを鮭きつける第五の魅力で
ある。長篇の《  蜀道難(卷三(一)一九九)(從郁賢皓《謫仙詩豪李白》?)》を例にとれば、
噫呼徹危乎高哉
蜀道之難難於上青天
噫肝蛾 危ういかな高きかな
蜀道の難きことは青天に上るより難し
などと多くの誇張的表現をとりつつ、長々と蜀道の難きことを長短句交えつつ歌ってゆく。読者は蜀道の険難に身ぶるいする思いがするであろう。
これらの誇張的表現こそ、まさしく李白詩の大きな魅力である。人口に膀灸されている「白髪三千丈」もその例の一つである。李白は誇張的表現をもって、多く自然の風物をさまざまの角度から歌う。これは李白のような豊富な想像力を持った人であってはじめてなしうることである。
自然の風物を歌うことはまた李白の豪放謀逸の性格にも関連する。彼の性格は、束縛から脱れて自由を愛する性格である。生まれつきでもあるし、その後、道教によってさらに成長していったものでもある。青壮年時代の各地の遍歴の理由の一つも、その性格の現われであるといってよい。その性格はまた自然の風物に近づけさせる。もっとも、彼の自由放逸の性格は陶淵明のように官僚を避ける方向ではない。李白はむしろ遍歴の各地で積極的に長官たちと交際している。人間ぎらいではない。しかも、自然の風物もこよなく愛している。広き自然のなかこモ、わが住む天地であるかのごとく思っている。こうした解放的閑達の気分が、彼をさらに自然に近づけさせ、またその自然を想像力豊富に、空想的ともいえる描写をとらせたのであろう。



1-6 第六の魅力
 李白の第六の魅力は、閔怨の詩が多いことである。その詩の多くは、孤閑にある妻の心情に同情して歌ったものである。むろんこれらの詩の発想が、六朝の楽府の影響であることは否定できない。ただ、李白自身、長く鞘旅の生活にあって、妻と同居したことは数えるほどしかなかったであろう。その妻を思い、妻に贈る詩はまま見ることができ、妻に対する愛情をくみ取ることができるが、むしろ留守を守る妻への愛情は、形を変えて一般的な閔怨の詩となって現われてきたように思われる。しかし、ただ妻を思うばかりが閔怨詩を生む原因ではない。長き歳月にわたる国境警備のための出征、また七年余にわたる安禄山の乱のための出征のため、これらによって留守家族が多くなり、その家族は夫の不在を悲しみ、帰るのをひたすら待ち望んでいた。唐の詩人は多くこうした留守居の妻の心に同情を寄せ、それを詩に歌わぬ者はないほどであった。出征のためばかりではない。都市の繁栄とともに商業が発達したため、商人たちの留守家族もしだいに増えてきた。当時こうした留守居の妻を歌う詩がようやく現われてきた。
 李白の閑怨の詩は、出征兵士を思う妻の心情を歌ったものが多い。後世に愛誦されている代表の一つは「子夜呉歌」であろう。
子夜?歌四首其一(卷六(一)四五○)
子夜?歌四首其二(卷六(一)四五一)
子夜?歌四首其三(卷六(一)四五二)
子夜?歌四首其四(卷六(一)四五三)
  卷165_29 《子夜?歌。秋歌》李白
  長安一片月,萬?擣衣聲。秋風吹不盡,總是玉關情。
  何日平胡虜,良人罷遠征。
長安一片の月、万戸に衣を擾つの声。
秋風吹いて尽きず、総べて是れ玉関の情
何れの日か胡虜を平らげて、良人は遠征を罷む。

 秋風の吹く時節となり、夫の出征の玉門関あたりをしのび、早く帰ってくるのを侍ち望んでいる留守居の妻の心情が痛いほど感ぜられる。
 以上、李白の何がわれわれをひきつけるかを列挙して述べてきたが、じつは李白の詩を読んでいると、いくつかの特色がまだある。たとえば月の詩があり、酒の詩があり、読む人を飽かせない。それぞれの詩がそれぞれに読者を魅了する。しかし、ここではその一々を述べるいとまがない。