杜詩詳注   巻七



           

杜詩詳注 巻七


07 杜詩詳注と杜甫全詩訳注 巻七
《杜詩詳注》唐・杜甫著 清・仇兆鰲注 中華書局出版
《杜甫全詩訳注》下定正弘・松原明編 講談社学術出版
《杜少陵詩集》 鈴木虎雄譯解    國民文庫刊行會


 杜詩詳注〔二〕・杜少陵集〔二〕・全詩訳注〔一〕 巻七
作時

(西暦)
杜詩

詳注

(二)
杜少

陵集

〔二〕
全詩

訳注

〔一〕
巻ID  詩題
07-01  新安吏(卷七(二)五二三)               <三吏三別 篇 @>
759年
523
1
711
07-02  潼關吏(卷七(二)五二六)               <三吏三別 篇 A>
759年
526
5
715
07-03  石壕吏(卷七(二)五二八)               <三吏三別 篇 B>
759年
528
8
718
07-04  新婚別(卷七(二)五三○)               <三吏三別 篇 C>
759年
530
12
721
07-05  垂老別(卷七(二)五三四)               <三吏三別 篇 D>
759年
534
16
726
07-06  無家別(卷七(二)五三七)               <三吏三別 篇 E>
759年
537
21
731
07-07  夏日歎(卷七(二)五四○)
759年
540
25
735
07-08  夏夜歎(卷七(二)五四二)
759年
542
27
735
07-09  立秋後題(卷七(二)五四四)
759年
544
30
741
07-10  貽阮隱居(卷七(二)五四四)
759年
544
32
743
07-11  遣興三首其一(卷七(二)頁五四六)
759年
546
34
746
07-12  遣興三首其二(卷七(二)頁五四七)
759年
547
 
747
07-13  遣興三首其三(卷七(二)頁五四八)
759年
548
 
749
07-14  留花門(卷七(二)五四九)
759年
549
40
751
07-15  佳人(卷七(二)五五二)
759年
552
44
756
07-16  夢李白二首其一(卷七(二)頁五五五)
759年
555
47
759
07-17  夢李白二首其二(卷七(二)頁五五七)
759年
557
 
762
07-18  有懷台州鄭十八司?(卷七(二)五五九) 759年 559 51
764
07-19  遣興五首其一(卷七(二)頁五六二) 759年 562 55
768
07-20  遣興五首其二(卷七(二)頁五六三) 759年 563 57
771
07-21  遣興五首其三(卷七(二)頁五六三) 759年 563 58
772
07-22  遣興五首其四(卷七(二)頁五六四) 759年 564 60
774
07-23  遣興五首其五(卷七(二)頁五六五) 759年 565 61
776
07-24  遣興二首其一(卷七(二)頁五六六) 759年 566 62
777
07-25  遣興二首其二(卷七(二)頁五六七) 759年 567 64
780
07-26  遣興五首其一(卷七(二)頁五六八)  759年 568 65
782
07-27  遣興五首其二(卷七(二)頁五六八) 759年 568 67
783
07-28  遣興五首其三(卷七(二)頁五六九) 759年 569 68
784
07-29  遣興五首其四(卷七(二)頁五七○) 759年 570 69
786
07-30  遣興五首其五(卷七(二)頁五七一) 759年 571 70
787
07-31  秦州雜詩二十首其一(卷七(二)頁五七二) 759年 572 72
788
07-32  秦州雜詩二十首其二(卷七(二)頁五七三) 759年 573 73
790
07-33  秦州雜詩二十首其三(卷七(二)頁五七四) 759年 574 75
791
07-34  秦州雜詩二十首其四(卷七(二)頁五七五) 759年 575 76
792
07-35  秦州雜詩二十首其五(卷七(二)頁五七六) 759年 576 77
794
07-36  秦州雜詩二十首其六(卷七(二)頁五七七) 759年 577 79
795
07-37  秦州雜詩二十首其七(卷七(二)頁五七八) 759年 578 80
796
07-38  秦州雜詩二十首其八(卷七(二)頁五七九) 759年 579 82
798
07-39  秦州雜詩二十首其九(卷七(二)頁五八○) 759年 580 83
799
07-40  秦州雜詩二十首其十(卷七(二)頁五八一) 759年 581 84
800
07-41  秦州雜詩二十首其十一(卷七(二)頁五八一) 759年 581 85
802
07-42  秦州雜詩二十首其十二(卷七(二)頁五八二) 759年 582 87
803
07-43  秦州雜詩二十首其十三(卷七(二)頁五八三) 759年 583 88
804
07-44  秦州雜詩二十首其十四(卷七(二)頁五八四) 759年 584 89
805
07-45  秦州雜詩二十首其十五(卷七(二)頁五八五) 759年 585 90
807
07-46  秦州雜詩二十首其十六(卷七(二)頁五八五) 759年 585 91
808
07-47  秦州雜詩二十首其十七(卷七(二)頁五八六) 759年 586 93
809
07-48  秦州雜詩二十首其十八(卷七(二)頁五八六) 759年 586 94
810
07-49  秦州雜詩二十首其十九(卷七(二)頁五八七) 759年 587 95
811
07-50  秦州雜詩二十首其二十(卷七(二)頁五八八) 759年 588 96
813
07-51  月夜憶舍弟(卷七(二)五八九) 759年 589 98
815
07-52  天末懷李白(卷七(二)五九○) 759年 590 99
816
07-53  宿贊公房(卷七(二)五九二) 759年 592
101
818
07-54  赤谷西淹人家(卷七(二)五九三) 759年 593 103
819
07-55  西枝村尋置草堂地夜宿贊公土室二首其一(卷七(二)頁五九四) 759年 594 104
821
07-56  西枝村尋置草堂地夜宿贊公土室二首其二(卷七(二)頁五九五) 759年 595 106
823
07-57  寄贊上人(卷七(二)五九七) 759年 597 109
826
07-58  太平寺泉眼(卷七(二)五九九) 759年 599 111
828
07-59  東樓(卷七(二)六○○) 759年 600 114
832
07-60  ;雨晴(卷七(二)六○一) 759年 601 115
833
07-61  寓目(卷七(二)六○二) 759年 602 116
834
07-62  山寺(卷七(二)六○三) 759年 603 117
836
07-63  即事(卷七(二)六○四) 759年 604 118
837
07-64  遣懷(卷七(二)六○五) 759年 605 119
839
07-65  天河(卷七(二)六○六) 759年 606 121
840
07-66  初月(卷七(二)六○七) 759年 607 122
842
07-67  擣衣(卷七(二)六○八) 759年 608 123
843
07-68  歸燕(卷七(二)六一○) 759年 610 125
844
07-69  促織(卷七(二)六一一) 759年 611 126
846
07-70  螢火(卷七(二)六一二) 759年 612 127
847
07-71  蒹葭(卷七(二)六一二) 759年 612 128
849
07-72  苦竹(卷七(二)六一三) 759年 613 130
850

杜詩詳注〔二〕・杜少陵集〔二〕・全詩訳注〔二〕 巻七








杜詩詳注(二)・杜少陵集〔二〕 巻七
                   作時西暦 杜詩詳注 杜少陵集

三吏三別:三吏;
    1. 新安の吏 2.石蒙の吏 3.潼関の吏
   三吏三別:三別;
    4.新婚の別れ 5.無家の別れ 6.垂老の別れ
その年の冬から翌年の二月ごろまで、杜甫は洛陽の東、鞏県にある旧居に、どのような事情があったのか分からないが、帰っている。時に都子儀ら九節度使の軍は二十万の兵を率いて、安慶緒を?城に包囲していたが、乾元二年(759)の二月、北の范陽に帰っていた史思明は南下して?城を救援し、三月に九節度使の軍は大敗した。郭子儀は敗軍をまとめ、洛陽を守るために河陽に陣を布いた。所用をすませて鞏県から洛陽を経て華州へ帰る途中、杜甫は都城で大敗した官軍が、新安、石蒙剛の河陽で、あるいは潼関で洛陽防衛のための準備を急遽行なっているのに、出会った。
彼は帰途の見聞を「新安の吏」「石蒙の吏」「潼関の吏」および「新婚の別れ」「垂老の別れ」「無家の別れ」の、いわゆる三吏三別の詩に詠んだ。何年か前、長安で仕途を求めていたころに作った「兵車行」のころの社会情勢といえば、唐の軍隊と人民という構造で人民が強制的に徴兵、調達されていく中で完全に人民の側に立って見ている社会詩であった。しかし、この時の社会情勢は、唐王朝軍を支えなければ国が危うい。安史軍に国を目壺させられると人民は苦しむ。ウイグルの援軍をもって唐王朝が勝利してもウイグルとの間に禍根を残す、それらが人民にのしかかってくる。
「兵車行」がひたすら人民の立場に立って当時の辺境政策を批判したものであったのに比べ、三吏三別は、国難に際して、安史軍の撃退を切に願う思いと、戦乱の中で苦しんでいる人民への同情とがからみあった、矛盾の表現とならざるをえないものになっている。いま、それら「新安の吏」「石蒙の吏」「潼関の吏」の順で見てみよう。「新婚の別れ」「無家の別れ」「垂老の別れ」と見る。 
新安吏 杜甫 三吏三別詩<215>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1019 杜甫詩集700- 304 
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石壕吏 杜甫 三吏三別詩<216>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1028 杜甫詩集700- 307 
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潼関吏  杜甫 三吏三別詩<217>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1037 杜甫詩集700- 310
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新婚別  杜甫 三吏三別詩<218>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1043 杜甫詩集700- 312
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無家別 杜甫 三吏三別詩 <219>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1052 杜甫詩集700- 315 
無家別 杜甫 三吏三別詩 <219>#2 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1055 杜甫詩集700- 316 
無家別 杜甫 三吏三別詩 <219>#3 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1058 杜甫詩集700- 317 

垂老別 杜甫 三吏三別詩 <220>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1061 杜甫詩集700- 318
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 巻ID 詩題
107-01 新安吏(卷七(二)五二三)759年523 1
新安吏
 *原注 収京収京後作。雖収両京。賦猶充斥。
客行新安道、喧呼聞點兵。借問新安吏?縣小更無丁。
府帖昨夜下、次選中男行。中男?短小、何以守王城。』
肥男有母送、 ?男獨伶?。 白水暮東流、青山猶哭聲。
莫自使眼枯、收汝?縱。眼枯即見骨、天地終無情。』
我軍取相州、日夕望其平。豈意賊難料、歸軍星散營。
就糧近故壘、練卒依舊京。掘壕不到水、牧馬役亦輕。
況乃王師順、撫養甚分明。送行勿泣血、僕射如父兄。』
(河南省河南府の新安県の官吏)
"杜甫の注:長安及び洛陽を奪還し、兩京を収めたといっても、安慶緒軍は道いっぱいにはびこっている。"
わたしが新安の大街道をとおってゆくときのことである、やかましい掛け声などがして兵の点呼、点検をはじめているのがきこえる。
どういうことなのかと新安の小役人にたずねてみると、彼がいうに、「この県は小さくてこのうえもはや壮丁として徴兵すべき「壮丁」の人材がいなくなったのです。
ゆうべ兵籍帖が幕府からさがってきましたが、これから第二選別の若者を選び「中男」としてこんどゆくのでございます」と。
中男というもの、見ればひどく背も低く、身なりも小さいが、どうしてこんなおとこで洛陽の王城が守れるというのか。』
中男のなかに太った男がいて、そのかれの母親が見送りにきている。また痩せた男がいるがそれはひとり寄る辺なく淋しそうに見えている。
道端の渓流に暮れ残る白き光をうかべて東に向かって流れてゆく、あたりの春霞にけむる青山に見送る人々の慟哭の声がやまず、絶えることなく響いている。
(以下杜甫の語)あなたがたはそんなに泣いて、泣きつくして涙がかれてしまったたらいけない。ともかくそのように縦横に乱れおとす涙を抑えられて収めることにしてくれ。
泣き涸らしてもしも骨がでるほどに見えてしまうことにでもなってしまう、この状況を天地はついに情のないものでいたしかたのないものだ。』
我が連合軍は安慶緒軍の相州(都城)を包囲し、奪取するというので、誰もみんな、朝から晩まで日のあるうちは、それが平らぐのを待っている。
それに安慶著軍に意外にも史思明が援軍を送ったことは予想もしていなかったことだ、安史軍の勝利で九節度のそれぞれの軍はもどり軍隊となり、星を散らすように、それぞれの陣営にかえってしまった。
そのうちで郭子儀の朔方軍は洛陽の近くのこれまでの塞に糧食に就き、旧京である洛陽を死守しようとして訓練をし、隊列を整えた。
水の出る所まで深く掘るというではなく、壕を掘ったり、馬が役割を十分できるように、又軽い力わざを出せるように馬を牧養するという。
そのうえ勅命を受けている軍、天の順序、正道にかなっている軍隊であり、その兵卒を愛し、養うてくださることはだれにもはっきりわかっていることなのだ。
出兵する自分の子どもの出征をみおくるにしても血の涙を流して哭くには及ばないのである。総司令官である郭僕射は出征兵士にとっては父兄のように慈しんでくださるお方であるのだ。』
(新安吏)
原注 京を収めて後作る。両京を収むと雖も賊猶を充斥する。
客 行く新安の道、喧呼【けんこ】兵を點ずるを聞く。
新安の吏に借問すれば、「縣小にして更に丁無し。
府帖 昨夜下り、次選 中男行く。」と。
中男?【はなは】だ短小なり、何を以てか王城を守らん。』
#2
肥男【ひだん】は母の送る有り、?男【そうだん】は獨り伶?【れいへい】たり。
白水暮に東流し、青山【せいざん】猶ほ哭聲【こくせい】。
自から眼をして枯らしむる莫かれ、汝が?の縱たるを收めよ。
眼枯れ即ち骨を見【あら】わすも、天地は終【つい】に情無し。』
"
我が軍 相州を取る、日夕【にっせき】其の平らかならんことを望む。
豈に意【おも】わんや賊の料【はか】り難く、歸軍して營に星散す。
糧に就きて故壘【こるい】に近づき、卒を練って舊京【きゅうけい】に依る。
壕を掘るも 水に到らず、馬を牧する役も亦輕し。
況んや乃ち王師は順なるをや、撫養【ぶよう】甚【はなは】だ分明なり。
送行するも血に泣くこと勿かれ、僕射【ぼくや】は父兄【ふけい】の如し。






307-02  潼関吏  杜甫 三吏三別詩
(潼関の吏)
官軍は相州(?城)を囲んで敗れ、その後、らくよもおちる。そのたため、潼関を修理して安氏軍の攻撃から防ごうとした。作者はたまたまその防禦築城の場所を通りかかり、役人と問答してこの詩を作った。
759年乾元2年春48歳

(潼関駅の吏を見る)
ここの潼関の駅ではどうしてあのように忙しく兵卒が塞城をきずいているのだろうか。』
それは、この大きな城は堅固に作られ、鉄さえおよはぬほどのものであり、小さな城は万丈あまりの高いところにきずかれている。
なぜこのようにするのかと潼関の役人に尋ねてみると、役人のいうには、「この関所を修理してまた安史軍が攻めてくるのにそなえるのだ」という。』
そういって役人は私に対し馬から降りてあるかせ、山のすみの方向を指さしてわたしのために示したのだ。
その方をみると雲にまでつづいて障害物の柵がならんでおり、飛ぶ鳥さえ飛び越えられないほどの厳重さである。』
役人はいった、「こうやって準備をしておれば、安史軍が攻めてきたら、ただ自ら守りに専念するので、どうして二度と長安方面に心配事をさせることがありましょうか。
ご丈人さま、要害の箇所を注視してください、あのように路はばがせまくてたった一つの兵車しかとおれません。
一朝国家の艱難辛苦の時であっても、味方が長い戟をふるうのですが、ここを守るにはどうやってもいつの世でもただ一人の兵士だけで事足りるということなのです」と。』
その戦はまことに哀しいことで、前年桃林の戦いのとき王朝軍は大敗して大変多くの兵士が溺死して魚と化してしまったのだ。
わたしはこの潼関を防ぐ大将におたのみしたい、つつしんで前年の哥舒翰のまねだけはしてはならないと。』
(潼関の吏)#1
士卒何ぞ草草たる,城を築く潼関の道。』
大城は鉄も如かず,小城は満丈余。
潼関の吏に借問す,関を修めて還た胡に備う。』
我を要して馬を下りて行く,我が為に山隅を指す。
雲を連ねて戦格に列し,飛鳥踰えること能はず。』
#2
胡来たれば但だ自ら守り,豈に復た西都を憂う。」
丈人要処を視よ,窄狹にして單車を容る。
艱難長戟を奮う,萬古一夫を用いる。』
哀い哉桃林の戦,百萬化して魚と為る。
請う防関の将に嘱し,慎て哥舒を学ぶこと勿れ。』







307-03 石壕吏(卷七(二)五二八)759年528 8
石壕の村で役人が河陽へゆくべき人夫を徴発するとき、こどもを二人まで戦死させた老婦人が乳のみの愛孫を家にのこし、その夫の老翁に代って出かけることをのべた詩。製作時は前詩に同じ乾元2年759年48歳

 杜甫が衛八(家に泊まり『贈衛八処士』を作)に泊ったのは、二月末のことだ。まだ相州の敗戦(三月四日)のことを知るよしもないが、、。杜甫は前年末に華州を出てから二か月以上たっているので、華州に帰ろうとしていた。そのとき相州の敗報を聞いて驚愕した。

 華州へ帰る途中での見聞をもとにまとめたのが五言古詩の連作六首「三吏三別」(さんりさんべつ)で、いずれも戦争に駆り出される民の辛苦を詠ったもの。
 石濠村は洛陽の西110km余の陝州(せんしゅう:河南省三門峡市陝県)の村。杜甫はその村の家に一夜の宿を求めた。そこでの役人と差し出す家族との様子をあらわした。
役人がやってきて、兵に出す男を捉えようとする。老人は垣根を跳び越えて逃げ、老婦が応対に出る。杜甫はその様子を客観的に見ていた。

日暮になって石壕の村にはいって泊まることになった。役人が徴兵のため夜になって(壮丁となる)男をつかまえようとしている。 
宿のおじいさんはつかまえられぬようにと垣根をこえて走りだす、おばあさんは門から出て外を見つめている。」
一体なんであのように役人が大声をだしておこるのか。どうしてあのようにおばあさんが苦しそうに啼いているのだろうか。
おばあさんがすすみでて役人に申しだす所をよくきいていると、次の如くいう、「わたくしに三人の男の児がありますがみんな国のまもりで?城へいっております。』
(出征している三人の息子たちのうちの)一人の息子が手紙を託(たく)して寄こしてきた。(その手紙に拠ると、そのうちの)ふたりの息子は(今回の戦役で)新たに戦死したということなのだ。
生きている者は、しばらくはこっそりと生きのびることもできようが、死んでしまった者は、永久に終わってしまったのだ。』
部屋の中には、もう誰も壮丁となるべき人物はいないのだ。ただ乳離れをしていない孫だけがいる。
孫は居るので、その孫の母(つまり息子の嫁)はまだ、実家へ戻ってはいない。だけど家の出入りといった日常生活のうえで、嫁としてまともな形のスカートになってはいないのだ。』
わたしは、老婆で、体力も衰えてはいますが、どうか、石壕の吏さまが夜に帰られる際、連れて行かせていただきたいのです。国家の危急存亡の河陽の役に、お応【こた】えしてお役に立ちたいと存じます。これでもまだ、朝ご飯の準備くらいは、できるでしょう。』
夜は長く、話し声も途絶えたころになると、さすがに、幽【かす】かに咽【むせ】び泣いているのが聞こえてくる。
翌朝、空が明るくなると、わたしは華州への旅路に向かって出発するため、ひとりだけになったおじいさんと別れた。』

(石壕の吏)     
暮に石壕村に 投ず、吏 有り 夜 人を捉【とら】ふ。
老翁  墻【かき】を逾【こ】えて 走【に】げ、老婦  門を出【い】でて 看る。」
吏の呼ぶこと 一【いつ】に何ぞ怒【いか】れる、婦の啼くこと 一【いつ】に何ぞ 苦【はなはだ】しき。
婦の前【すす】みて 詞を致すを 聽く、「三男【さんだん】?城【ぎょうじょう】の戍【まも】り。」
#2
一男【いちだん】は書を附して至る、二男【にだん】は新たに戰死す。
存する者は 且【か】つ生を偸【ぬす】む、死者は長【とこし】へに 已【や】んぬ矣【い】。」
室中には更に 人無く、惟(た)だ乳下の孫有り。
孫有りて母 未だ去らず、出入に完裙【かんくん】 無し。』
#3
老嫗【ろうう】力 衰【おとろ】ふと 雖も、請【こ】ふ吏に從うて 夜歸らん。
急に河陽【かやう】の役【えき】に 應ぜば、猶ほ「晨炊【しんすゐ】に 備ふるを 得ん。」と。」
夜久しくして 語聲絶ゆ、聞くが 如し泣いて幽咽【ゆうえつ】するを。
天明前途に登らんとして、獨【ひと】り老翁と別る。」








407-04 新婚別(卷七(二)五三○)759年530 12
新婚別(新婚の別れ) 
杜甫は前年末に華州を出てから二か月以上たった。華州にもどる必要を感じていたところへ、相州・?城の敗報を聞いて、華州への帰途についた。
 石濠村を出てほどなく、杜甫は新婚の若い婦人と出会った。詩は女性の一人称形式で書かれており、全篇は妻が出征する夫に語りかけるように別れの悲しみを訴える。華州へ帰る途中での見聞をもとにまとめたのが五言古詩の連作六首「三吏三別」で、いずれも戦争に駆り出される民の辛苦を詠ったものだ。この詩は、三別の代表作といえるものである。
新婚別
兎絲附蓬麻、引蔓故不長。嫁女與征夫、不如棄路傍。』
結髪為君妻、席不煖君牀。暮婚晨告別、無乃太怱忙。
君行雖不遠、守辺赴河陽。妾身未分明、何似拝姑?。』
父母養我時、日夜令我蔵。生女有所帰、鶏狗亦得将。
君今往死地、沈痛迫中腸。誓欲随君去、形勢反蒼黄。』
勿為新婚念、努力事戎行。婦人在軍中、兵気恐不揚。
自嗟貧家女、久致羅襦裳。羅襦不復施、対君洗紅粧。』
仰視百鳥飛、大小必双翔。人事多錯?、與君永相望。』
(新婚の別れ)
根無し葛が「よもぎ」や「あさ」の茎にくっついて、その蔓の引っ張り方は長く伸びるわけのものではない。
女子もただの人に嫁にやればその行く末も伸びるであろうが、征伐にやられる男などに嫁にやったのでは末がのびない。征伐にゆくおとこにやるくらいなら道端へ捨てた方がましなくらいである。』
わたくしは髪をとりあげてむすぶ年ごろにあなたの妻となりましたが、嫁に来たてであって、あなたの寝台にしいてある席がまだ温まらぬほどしか日数が経たぬ。
ゆうぐれに婚礼をして翌朝は早別れを告げるとは、あんまりせわしないことではありませんか。
あなたの出生地に行かれるのは遠くはないとはいうものの、片田舎の地方を守るために河陽へとおゆきなされるのである。
嫁になったとはいえ、嫁いで三か月たたねば嫁としての身分がまだはっきりきまらないのです。一日や二日でどうして嫁だといって舅、姑さまに拝礼ができるというのでしょう。』
わたくしの両親がわたくしを養い育ててくれたときのこと、昼も夜もわたくしに幸福であってほしいとそだてられた。
娘を産んでそれをほかへ嫁入らせるときには、家つきの鶏や犬さえもそれを送ってゆけるというのに、私は嫁に来たばかりの家付きになっていない身なので夫の出征の旅立ちに、お送りすることができないのです。
あなたにとって、今からは死なねばならぬような場所へいかないといけないこともある、それを思えば心の奥底の痛みがはらわたの内へひしひしとせまるような心地がするのです。
心にはあなたについてゆきたいとかんがえるのですが、それではあんまりあわてた様子、はしたなくみえましょう。』
こうして出征された限りには新婚のことを心にとめ置くことはなりません、努めて戦の仕事やくわりをなさるようにしてください。
心の中でも婦人がいるとなれば軍隊のなかですからみんなそうでしょう、だから恐らくは軍隊の士気の奮い興ることが難しくなるでしょう。
ああ、わたくしは貧しい家のむすめです、嫁に来たてとはいえ、長々うすぎぬの袖無し上着やした絹を身につけており単衣で過ごしていたわけではありません。
うすぎぬの袖無し上着やした絹などは二度とは着ることはないでしょう。そしてあなたの目の前で紅やおしろいもすっかり洗いおとすことにしてしまいましょう。』
視線を上に仰ぎ見るとさまざまの鳥の飛ぶのを見てみるのに、大きなとりも小さなとりも必ず雌と雄とがならびかけているでしょう。
それなのに人間の事象はままならぬ縺れの多いもので、お別れするはしかたのないこと、ただいつまでもお互い心をかえず、再会するそのときを心待ちに暮らしております。』

(新婚の別れ)
兎絲【とし】蓬麻【ほうま】に附す,蔓【つる】を引く故【もと】より長からず。
女を嫁【かし】して征夫【せいふ】に與【あと】うるは 路傍【ろぼう】に棄つるに如【し】かず。』
髪を結びて 君が妻と為る,席 君が牀【しょう】を煖【あたた】めず。
暮に婚して晨【あした】に別れを告ぐ,乃【すなわ】ち太【はなは】だ怱忙【そうぼう】なる無し。
君が行【こう】遠【とう】からずと雖も、辺を守り河陽に赴【おもむ】く。
妾【しょう】が身 未だ分明ならず,何を似て姑?【こしょう】を拝せん。』
父母 我を養う時,日夜 我をして蔵【ぞう】せしむ。
女を生みて 帰【とつ】がせる所有れば,鶏狗【けいく】も亦将【おく】ることを得【う】。
君今死地【しち】に往【ゆ】く,沈痛【ちんつう】中腸【ちゅうちょう】に迫【せま】る。
誓って君に随って去らんと欲す,形勢【けいせい】反って蒼黄【そうこう】たり。
新婚の念を為すこと勿れ,努力して戎行【じゅうこう】を事とせよ。
婦人【ふじん】軍中【ぐんちゅう】に在らば,兵気【へいき】恐らくは揚【あ】がらざらん。
自ら嗟【さ】す貧家の女,久しく羅襦【らじゅ】裳を致す。
羅襦復た施さず,君に対して紅粧【こうそう】を洗わん。』
仰いで百鳥【びゃくちょう】の飛ぶを視る,大小必ず双び翔る。
人事【じんじ】錯?【さくご】多し,君と永く相い望まん。』







507-05 垂老別(卷七(二)五三四)759年534 16
 759年乾元2年秋〜冬 48歳 秦州で華州で見たことを思い出し詩にした時の作。

「三吏」・「三別」は乾元二年春洛陽より華州へかえる途中の作とされるが、此の題の#2の「歳暮衣裳単」(歳し暮れて衣裳は単【ひとえ】)は季節の歳象をあらわすもので、759年乾元二年の秋から冬初とする。下文に「勢異?城下」(勢は?城下と異なる)とあり、759年乾元二年三月四日九節度の大敗以後であることを示すが、秋初には杜甫は秦州に赴いている。此の詩を乾元二年冬晩の作とする説もあるが、冬には杜甫は同谷に赴いている。史を案ずるのに759年乾元二年秋七月李光弼は郭子儀に代って朔万節度使兵馬元帥となり洛陽に赴き、十月史思明と河陽に戦って敗れている。詩中の「土門、杏園」は洛陽の地名で河陽に赴くものであるところから、老人は光弼の軍に赴くものとされる。時期は秋以後のことであろう。製作地は「遣興」・「佳人」等が秦州の作であることと、此の篇には冬十月の河陽の勝利を予想しておらないこととによって秦州であると考えるのが妥当である。「垂老別」はその内容から華州途上の作ではないが、「三吏三別」のくくりとしてここに置くものである。

垂老別       杜 甫
四郊未寧静、垂老不得安。子孫陣亡尽、焉用身獨完。」
投杖出門去、同行為辛酸。幸有牙歯存、所悲骨髄乾。
男児既介冑、長揖別上官。』
老妻臥路啼、歳暮衣裳単。孰知是死別、且復傷其寒。
此去必不帰、還聞勧加餐。』
土門壁甚堅、杏園度亦難。勢異?城下、縦死時猶寛。」
人生有離合、豈択衰盛端。憶昔少壮日、遅廻竟長嘆。』
萬国尽征戍、烽火被岡巒。積屍草木腥、流血川原丹。
何郷為楽土、安敢尚盤桓。棄絶蓬室居、搨然摧肺肝。』
四方、どこもかしこもいまだ平和に収まらない、この老いかかった身の老人も落ち着いていることができない状況だ。
子も孫もみな戦死し尽くした今となって、どうしてこの身体だけ生きながらえていくことがなんの役に立つというのだろう。』
頼りにした杖を投げ捨てて我が家の門から出掛けてゆくと、一緒に行く仲間のものは自分のために悲しんでくれる。
幸に自分には牙や歯はまだ残っているが、悲しいことには骨の髄が干からびて関節痛になっている。
しかし自分はもはや男児として、こうして鎧兜を身につけたかぎりには、上官の方に立ち会釈して出て行くのだ。』

やはり、老いた妻は路傍に伏して泣いている、歳の暮れこの寒さに単衣の薄い衣裳だけでいる。
この度の別れは死に別れになるのだと誰が知っていようか、かといって、また妻の寒そうな姿を見て心を痛めないわけにはいかないのだ。
自分は今ここを出掛ければ再び戻れないに決まっていることは分かっている、にもかかわらず妻が自分に対して少しでも多く食事をして、体を愛おしみ気を付けよといってくれるのを耳にするのである。』
絶対に負けると心配したものでもない、土門の城壁ははなはだ堅固なものであるし、杏園の渡りも安史軍が渡ってくるには困難なものである。
現在、出掛けて行く河陽の地の官軍の勢いまは?城の下で負けた時とは違って整えて違ってきている、たとえ戦死するにしても大敗してすぐというわけでなく、ゆとりがあるように思う。

人間世界では逢うと別れとは時節が決まり無いものであり、血気盛んなときだけ別れをさせ、衰えたときには別れをさせないというようなものではない。
しかし昔、自分がわかく元気であったときのことを思いだすと、今もあのころのようならばと考えて、ぐずぐずして前へすすまない、結局ため息して嘆くばかりなのである。』
今や天下中みんな叛乱を征伐や叛乱から守る戰ばかりで、のろし火の煙が岡や山におおわれているのである。
積まれた屍はあたりの草木までもなまぐさい臭いが充満している、血は流れて川や野原も真っ赤に染まっている。
どこの地方が安楽世界なのかと思うが、そんな所がありはしないのだ。どうして尚ここにのんびりぶらしていられようか。
こういうことが原因で自分は断然として住み慣れた蓬の家を放棄するのである。そのため意欲がなくなっており、辛さに肺や肝までくだけるのである。』

老いて垂【なんな】んとする別れ #1
四郊 未だ寧静【ねいせい】ならず,老いて垂【なんな】んとして安らかなるを得ず。
子孫 陣亡【じんぼう】し尽し,焉ぞ身の獨り完【まつた】きことを用いん。
杖を投じて門を出て去る,同行し為に辛酸【しんさん】する。
幸に牙歯【きば】の存する有り,悲しむ所 骨髄【こつづい】乾く。
男児 既に介冑【かいちゅう】し,長揖【ちょういう】して上官と別れる。
#2
老妻【ろうさい】路に臥して啼く,歳暮れて衣裳は単【ひとえ】。
孰【たれ】か知らん是れ死別なるを,且つ復た其の寒からんことを傷む。
此【ここ】を去りては必らず帰らず,還た聞く加餐【かさん】を勧めるを。』
土門 壁甚【はなは】だ堅し,杏園【きょうえん】度【わた】るも亦た難し。
勢いは?城【ぎょうじょう】の下に異なり,縦【たと】い死しても時猶を寛【かん】ならん。」
#3
人生 離合あり、豈に衰盛の端を択【えら】ばんや。う昔,昔 少壮【しょうそう】なりし日を憶いて,遅廻【ちかい】して竟に長嘆【ちょうたん】するを。
萬国尽【ことごと】く征戍【せいじゅ】,烽火【ほうか】岡巒【こうらん】に被る。
積屍【せきし】草木【そうもく】腥【なまぐさ】く,流血 川原【せんげん】丹【あか】し。
何れの郷か楽土と為し,安んぞ敢て尚を盤桓【ばんかん】せん。
蓬室【ほうしつ】の居を棄絶【きぜつ】して,搨然【とうぜん】肺肝【はいかん】を摧【くだ】く。







607-06 無家別(卷七(二)五三七)759年537 21
母も妻子も亡くなった孤独な男が、船上から帰って来たばかりで、また征役に出されようとして,その家に別れ去る心を述べた詩。華州での作。
乾元2年 759年 48歳の作

無家別
寂寞天宝後、園盧但蒿藜。我里百余家、世乱各東西。
存者無消息、死者為塵泥。』
賎子因陣敗、帰来尋旧蹊。久行見空巷、日痩気惨凄。
但對狐與狸,豎毛怒我啼。』
四隣何所有、一二老寡妻。宿鳥戀本枝、安辭且窮棲。
方春獨荷鋤、日暮還潅畦。』
県吏知我至、召令習鼓?。雖従本州役、内顧無所携。
近行止一身、遠去終轉迷。家郷既盪盡、遠近理亦斎。』
永痛長病母、五年委溝谿。生我不得力、終身両酸嘶。
人生無家別、何似為蒸黎。』
(妻・家族のいないわかれ。)
天宝十四載の安禄山が幽州で反旗を挙げ以後はわが国土は荒れて寂しくなり、田畑や庵小屋にはただ「よもぎ」だの「あかざ」が生えはびこるばかりとなっている。
自分の村里には百軒あまりの家があるのだが、このように世が乱れてからというもの村人はそれぞれ土地放棄して東や西に散ってしまっている。
生きている者といってもたよりがあるわけではないし、死んだ者は塵か泥に変わってしまったろう。』
自分は戦が負けたことで村へ逃げ帰ってきて、懐かしいもとの小道を尋ねてみる。
久しぶりに見る村の小径に人かげはなく、日の光もやせたように力なくて、辺りに物悲しい空気がただよっている。
ただ村で誰もいない代わりに狐や狸に出あうばかりなのだ、そして彼らは私をよそ者として向かって毛をさか立てて怒って啼くのである。』
また四方の隣りや近所には何があるかと見ると、一人二人と年寄りや寡婦がいるばかりである。
樹に宿る鳥であってももと住んだ枝が恋しいく、荒れ果てているが故郷が恋しいというもの。窮々としてひとり住むことでもどうしてわたしは故郷の恋しさ、安寧することを否めないのだ。
ょうどいまは春なのでわたしはただひとり鋤を担っていて日が暮れてもまだ畑に畦を作り、畝に水を注ぎいれているときだ。』
ところがわが県の下役人はわたしが戻ってきたことを知って、わたしを呼び出して戦太鼓や小鼓を打つことを習わせる。
わたしはお上のため仕方なしに所属の華州の仕事だから従事せざるをえないのである。さて、私自身の親族縁者をかえりみると、手をひきあう所の妻子眷属というものがないのだ。
たとえ県内だけの近い所を行くにも我が身ひとつであるし、もしもっと遠方の地に行くのであったら、結局、どうしようもないことであり、前途わけのわからぬ境涯になってしまうことである。
しかし妻子眷屬誰もいない中で自分が出征したのは一家一郷、すでに何もすっかり無くなっていることだ、だから、遠かろうが近かろうが何処であっても、良い運命に出会っていないという道理が同じことでどうでもよいことなのだ。』
自分(杜甫)がことに永久痛ましく思うことは、自分の長患いをした母親のことだが、五年の間、みぞやたににうちすててあるのと同じことだ。
自分(杜甫)を産んでくれたのに自分から扶養してあげられなかった、これについては母も自分も酷く辛く思って泣いたのだ。
人が生きていく上で、別れるべき家人を持たない別れをすること、帰る場所、待ってくれる人がいない別れというものがあるのだ。このように根無し草になってしまうことなのに、どうして国の民ということができるのか!。』

(無家の別れ)
寂寞【せきばく】たり天宝の後,園盧【えんろ】但だ蒿藜【こうれい】。
我が里 百余家,世 乱れて各ゝ 東西す。
存する者 消息無く,死せる者は塵泥【じんでい】と為れり。』
賎子【せんし】陣敗【じんぱい】に因り,帰り来たって旧蹊【きゅうけい】を尋ねる。
久行【きゅうこう】空巷【くうこう】を見る,日 痩【やせ】て 気 惨凄【さんせい】なり。
但だ狐と狸とに対す 毛を竪【た】てて 我を怒りて啼く。』
四隣は何の有る所ぞ,一二の老 寡妻【かさい】。
宿鳥【しゅくちょう】本枝【ほんし】を恋う,安んぞ且つ窮棲【きゅうせい】するを辞せん。
方に春にして獨り鋤【すき】を荷【にな】う,日暮【にちぼ】還た畦【けい】に潅【そそ】ぐ。』
県吏 我が至るを知る,召して鼓?【こへい】を習わ令む。
本州の役【えき】に従うと雖も,内に顧【かえり】みるに携【たずさ】える所無し。
近く行くに止【た】だ一身,遠く去れば終に轉【うた】た迷わん。
家郷【かきょう】既に盪盡【とうじん】す,遠近 理亦た斎【ひと】し。』
永く痛む長病の母,五年 溝谿【こうけい】に委【い】するを。
我を生むも力を得ず,終身両【ふたり】ながら酸嘶【さんせい】しき。
人生 無家の別れ,何を似ってか蒸黎【じょうれい】と為さん。』










707-07  夏日歎(卷七(二)五四○)759年540 25








807-08  夏夜歎(卷七(二)五四二)759年542 27








907-09  立秋後題(卷七(二)五四四)759年544 30







1007-10  貽阮隱居(卷七(二)五四四)759年544 32









1107-11遣興三首其一(卷七(二)頁五四六)759年546 34







1207-12遣興三首其二(卷七(二)頁五四七)759年547  








1307-13遣興三首其三(卷七(二)頁五四八)759年548  







1407-14留花門(卷七(二)五四九)759年549 40


15 佳人





1507-15 佳人(卷七(二)五五二)759年552 44









1607-16 夢李白二首其一(卷七(二)頁五五五)759年555 47



17 夢李白二首其二





1707-17 夢李白二首其二(卷七(二)頁五五七)759年557  








1807-18  有懷台州鄭十八司戸(卷七(二)五五九)759年559 51








1907-19 遣興五首其一(卷七(二)頁五六二)759年562 55








2007-20 遣興五首其二(卷七(二)頁五六三)759年563 57








2107-21遣興五首其三(卷七(二)頁五六三)759年563 58








2207-22遣興五首其四(卷七(二)頁五六四)759年564 60








2307-23遣興五首其五(卷七(二)頁五六五)759年565 61







2407-24遣興二首其一(卷七(二)頁五六六)759年566 62






2507-25遣興二首其二(卷七(二)頁五六七)759年567 64









2607-26遣興五首其一(卷七(二)頁五六八)    759年568 65





2707-27遣興五首其二(卷七(二)頁五六八)759年568 67






2807-28遣興五首其三(卷七(二)頁五六九)759年569 68






2907-29遣興五首其四(卷七(二)頁五七○)759年570 69






3007-30遣興五首 其五(卷七(二)頁五七一)759年571 70








3107-31秦州雜詩二十首其一(卷七(二)頁五七二)759年572 72




3207-32秦州雜詩二十首其二(卷七(二)頁五七三)759年573 73




3307-33秦州雜詩二十首其三(卷七(二)頁五七四)759年574 75





3407-34秦州雜詩二十首 其四(卷七(二)頁五七五)759年575 76





3507-35秦州雜詩二十首其五(卷七(二)頁五七六)759年576 77





3607-36秦州雜詩二十首其六(卷七(二)頁五七七)759年577 79





3707-37秦州雜詩二十首其七(卷七(二)頁五七八)759年578 80




3807-38秦州雜詩二十首其八(卷七(二)頁五七九)759年579 82





3907-39秦州雜詩二十首其九(卷七(二)頁五八○)759年580 83




4007-40秦州雜詩二十首其十(卷七(二)頁五八一)759年581 84









4107-41秦州雜詩二十首其十一(卷七(二)頁五八一)759年581 85





4207-42秦州雜詩二十首其十二(卷七(二)頁五八二)759年582 87





4307-43秦州雜詩二十首其十三(卷七(二)頁五八三)759年583 88




4407-44秦州雜詩二十首其十四(卷七(二)頁五八四)759年584 89





4507-45秦州雜詩二十首其十五(卷七(二)頁五八五)759年585 90









4607-46秦州雜詩二十首其十六(卷七(二)頁五八五)759年585 91






4707-47秦州雜詩二十首其十七(卷七(二)頁五八六)759年586 93





4807-48秦州雜詩二十首其十八(卷七(二)頁五八六)759年586 94





4907-49秦州雜詩二十首其十九(卷七(二)頁五八七)759年587 95





5007-50秦州雜詩二十首其二十(卷七(二)頁五八八)759年588 96







5107-51  月夜憶舍弟(卷七(二)五八九)759年589 98








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5207-52  天末懷李白(卷七(二)五九○)759年590 99








5307-53  宿贊公房(卷七(二)五九二)759年592 101








5407-54  赤谷西?人家(卷七(二)五九三)759年593 103







55  07-55 西枝村尋置草堂地夜宿贊公土室二首其一(卷七(二)五九四)759年594 104







56  07-56 西枝村尋置草堂地夜宿贊公土室二首其二(卷七(二)頁五九五)759年595 106







5707-57  寄贊上人(卷七(二)五九七)759年597 109








5807-58  太平寺泉眼(卷七(二)五九九)759年599 111








5907-59  東樓(卷七(二)六○○)759年600 114








6007-60  雨晴(卷七(二)六○一)759年601 115








6107-61  寓目(卷七(二)六○二)759年602 116








6207-62  山寺(卷七(二)六○三)759年603 117









6307-63  即事(卷七(二)六○四)759年604 118







6407-64  遣懷(卷七(二)六○五)759年605 119








6507-65  天河(卷七(二)六○六)759年606 121









6607-66  初月(卷七(二)六○七)759年607 122








6707-67  擣衣(卷七(二)六○八)759年608 123







6807-68  歸燕(卷七(二)六一○)759年610 125







6907-69  促織(卷七(二)六一一)759年611 126







7007-70  螢火(卷七(二)六一二)759年612 127








7107-71  蒹葭(卷七(二)六一二)759年612 128







7207-72  苦竹(卷七(二)六一三)759年613 130